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ノテ
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竹林の隠れ家で化け猫に威嚇され、カラスの大群に肉を突かれたあの忌まわしい夜。徳兵衛は、命からがら長屋へと逃げ帰った。しかし、そこに待っていたのは安らぎではない。かつて美女と謳われた面影も失せ、どす黒い執念を煮詰めたような老婆の姿に変貌した石藤の罵声であった。
石藤:「……情けないねぇ、徳兵衛! 布一枚盗めずに、鳥に突かれて帰ってくるとは。お前のような腰抜け、もう用はないんだよ! さっさとその汚い面を消しな!」
石 藤の口から漏れる息は、腐った泥のような臭いがした。徳兵衛は、ふと自分の手を見た。かつて金貨を数え、石藤の肩を抱いたその手は、今やネズミの足のように細く、どす黒く汚れ、震えている。
(……俺は、何をしていたんだ。金を奪い、人を笑い、女の尻を追いかけて。その果てに待っていたのが、この地獄か)
徳兵衛の心の中で、何かが音を立てて崩れ去った。彼は一言も言い返さず、ただ石藤を真っ直ぐに見つめた。その瞳にはもはや怯えはなく、深い絶望と、それを超えた「諦念」が宿っていた。
徳兵衛:「……石藤。お前さんの言う通りだ。俺は腰抜けで、空っぽの男だった。……さらばだ」
徳兵衛は、石藤の罵声を背に、夜の町へとふらふらと歩き出した。行く当てもない。ただ、自分の内側から湧き上がる醜い欲望から、一刻も早く遠ざかりたかった。
数日後。徳兵衛は、町外れの険しい山中にある、古びた寺の門前に倒れていた。
「……おい、お前さん。死にたいのなら他所へ行け。生きたいのなら、この箒(ほうき)を持て」
現れたのは、岩のように厳格な老僧であった。徳兵衛は、震える手でその箒を握りしめた。それからの一年間、徳兵衛の生活は一変した。
朝は誰よりも早く起き、井戸から冷たい水を汲み、何百段もある石段を磨き上げる。食事は一汁一菜。かつて贅を尽くした酒や肴の味など、とうの昔に忘れた。冬には雪をかき、夏には草をむしる。手のひらはマメで潰れ、皮が剥け、やがて鋼のように硬くなった。
村人たちは当初、この「ネズミのような醜い男」を気味悪がって避けていた。しかし、徳兵衛は黙々と働いた。道が崩れれば一人で石を運び、行き倒れの旅人がいれば自分の粥を分け与え、病で動けない老人の家の屋根を修復した。
村の老婆:「徳兵衛さん、あんた、どうしてそこまでしてくれるんだい?」
ある日、村の老婆が尋ねた。徳兵衛は、汗を拭い、穏やかに微笑んだ。
徳兵衛:「……いえ。私はかつて、人の心を石ころに変えてしまった罪人です。こうして誰かのお役に立てることだけが、今の私の唯一の救いなのです」
その言葉に嘘はなかった。徳兵衛は、感謝されることを望んでいなかった。ただ、誰かが喜ぶ顔を見るたびに、自分の胸の奥にあった冷たい石が、ほんの少しずつ、温かい「光」に溶けていくのを感じていた。
変化は、ある朝突然訪れた。
寺の池の水を汲みに行った徳兵衛が、ふと水面に映った自分の姿を見た。
徳兵衛:「……これは……誰だ?」
そこに映っていたのは、あの卑屈なネズミのような男ではなかった。
日焼けした精悍な顔立ち。澄み渡った秋の空のような、深い知性を湛えた瞳。そして、人を安心させるような、慈愛に満ちた口元。かつての「色男」としての美しさとは違う、内側から滲み出る「徳」によって形作られた、神々しいまでの美男子の姿があったのだ。
徳兵衛が村に降りると、人々は驚愕した。
「なんて清らかなお方だ……」
「徳兵衛さん、あんた、まるで仏様のようだ」
徳兵衛が歩けば、道ゆく人々が自然と頭を下げる。だが徳兵衛は奢らなかった。彼は、山を降りる決意をした。かつて自分が富を貪り、人を傷つけたあの町へ戻り、今度はその手で人々を救うために。
その頃、石藤は――。
彼女は、徳兵衛が去った後、さらに深い闇へと落ちていた。
石藤:「……あたいを捨てた報いだよ、徳兵衛。……あたいはね、あんたたちが救ったものを、全部壊してやるんだ。この『お方』と一緒にねぇ……」
石藤が抱いているのは、赤ん坊ではない。それは、町中に蔓延し始めた「黒い病」を操る、疫病神の化身であった。石藤の顔は、もはや人間の皮膚ではなく、ひび割れた大地のように乾き、怨念で赤黒く変色していた。
光を放つ与太郎、徳を積んだ徳兵衛。そして、闇を統べる石藤。
運命の糸は、再びあの因縁の町で、複雑に絡み合おうとしていた。