テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
管野アリオ
1,048
瑠璃マリコ
4,205
#大人ロマンス
桃下結衣
478
「金を……治療費を心配して、それで俺に遠慮して黙ってるのか!?」
「……」
「……難度が高いって言ったよな? どこに行けば母さんを治してくれるんだ? 市民病院か? 大学病院か?」
兄は縋るような目をして、私の両肩を掴む。
「お兄ちゃん……」
「金なら何とかする……絶対、何とかしてみせる! 亜紀、おまえなら母さんを助けてくれる病院を知ってるだろ? おまえの勤めてる大学病院ならできるのか?
……なあ、おまえは心臓専門医なんだろ? おまえが母さんを助けてくれるだろ?」
畳みかけるように言葉を繋ぐ兄の顔が、悲愴に大きく歪んだ。
揺さぶられ、強く握られる私の肩に伝わるのは、兄の不安と心の痛み。
「……お母さんは、私が神奈川県に連れて行く」
その兄の手の上に自分の手を重ね、低い声を漏らす。
「えっ……神奈川?」
「論文が認められて、神奈川県にある関東循環器病センターに誘われてるの。
ずっと迷ってたけど……私、もう決めた。今の大学病院を辞めて、お母さんを連れて循環器病センターに行く。優秀なドクターと設備が整ったその施設で、私がお母さんの治療に当たる」
見つめ返すその目に決意を宿し、私は凛とした声で言い切った。
「関東循環器病センター? 神奈川って……母さんを連れておまえ一人でか?
そんな簡単に決めて、旦那が何て言うかまだ分からないだろ?」
「……いいの。関東に行く頃には、遼にはもう関係のない話になってるから」
低い声を落とし、歪むような苦しげな表情を見せる私。
「はぁ?……どういう意味だよ」
兄は眉間にしわを刻み、私を凝視する。
「……」
兄の視線を感じながら、思い詰めたように俯く。
「うまくいってないの……私達」
二人の間に氷が張るような沈黙が降り下りた直後、私は意を決して口を開いた。
「うまくいってないって……」
「離婚したいの。……ううん。離婚しなきゃいけないの……」
たとえ戸籍上だけの夫婦関係であろうと、お互い浮気をしながらでも、『偽りだらけの夫婦関係』なら今までどおり続けられるかもしれない……
だけど、これは夫婦間の問題だけじゃない。
楓ちゃんのお腹の中には遼の子供がいる。
秋には産声を上げる。遼が父親であることをどんなに否定しようと、遺伝子を受け継いだその子は大人へと成長していく。
どんなに歪んだ男女関係から芽生えた命であろうと、生まれてくる子供に罪はない。
罪を背負うべき者は、身勝手な欲望に溺れた大人達……
「……夫の浮気相手に子供ができたの。私にも想う人がいる。何年も前から、私達の夫婦関係は壊れてた。これ以上、裏切りと嘘で固めた夫婦関係を続けていくわけにはいかないの。
……生まれてくる子供のためにも、私から離れるしかないの」
そう、これ以上の悲劇を生み出さないために、私から離れなければいけない。
今泉さん……あなたからも。
まるで自分に言い聞かせるように、重々しく言葉を連ねた。
雷に打たれたような顔をして、ただ愕然とする兄。
私はそんな兄を見つめ、堪えながら砂を噛むように唇を引き結んだ。
「何だよそれ……旦那が愛人を孕ませて、その妻まで浮気してるだと?……不倫ドラマのシナリオじゃあるまいし」
「……」
「……確かにお転婆娘だったけど、根は真面目で優等生だったおまえが……どこで道踏み外してそんな擦れた大人になったんだよ。
おい、冗談だよな?」
兄は引き攣ったような声を漏らし、口元には苦笑を貼り付ける。
糸をぴんと張ったような緊張感の中で重なる視線。
「……ごめんね、お兄ちゃん。こんな妹で。
……だけど分かって。お兄ちゃんに打ち明けたこの気持ち。お母さんには……今のお母さんには本当のことは言えない。でも、お兄ちゃんにだけは嘘をつきたくない。だから私は……」
「それでどうするんだよ! 旦那と別れて、おまえもその男の所に行こうって言うのか!?
もしかして、一緒に神奈川で暮らそうって言うのか!? だから都合よく母さんの病気を利用してっ」
兄は目を吊り上げ、感情に任せて強い口調で言葉をねじ込んだ。
「それは違う!……違うの。彼には妻子がいる。独り身になったとしても、家族から彼を奪おうなんて思ってない」
……思っちゃいけない。
傲慢な欲望の先にあるものは、深い憎しみと孤独。誰も幸せにはなれない。
どんなに手に入れたくても、人として壊してはいけないものがあると、身をもって知ったから。
終わりのない愛のかたち……
自分を支えてくれる本当に大切なものが何かを、あの人が教えてくれたから。
「……夫と別れて、彼とも距離を置く。向こうの施設と契約する期間は二年間。その間、私はお母さんの目を盗んで彼と会ったりしない」
「ちょっ、ちょっと待てよ!
そんなグチャグチャな話、一度に言われて気持ちを理解しろって言うのが無理な話だっ。
……つまり、おまえは彼と別れる覚悟で関東に行くんだな」
「……うん」
「……不倫関係に遠距離恋愛なんて存在しないぞ。体の関係が絶たれればきっと終わりだ。……亜紀、おまえはそれを分かって言ってんのか?」
兄は諭すように言って、顔をしかめた。
「お兄ちゃん……私ね、彼と出会うまでは不倫なんてただの汚らわしい、身体だけが目的の関係だと思ってた。でもね、違うの。彼が私の心を解放してくれた……」
決して愛に見返りを求めず、純粋に人を愛する喜びを教えてくれた。
情熱を絡め合い、慈しむように愛される女としての悦びを教えてくれた。
閉じこもっていた『安定』という偽りだらけの殻を突き破り、茨の道さえも一人で歩く勇気を与えてくれた。
「鳥籠から抜け出す、自分を変える勇気を彼が与えてくれたの。今、私がここにいるのは、彼の存在があったから。いつも見守ってくれる彼のおかげなの。……距離も時間も関係ない。会えない時間の淋しさを埋めてくれる、不変の信頼感があるから」
兄を見つめる揺るぎない瞳。
手の中にあるお守りを握り、言葉に真意を込めた。
「自分を変える勇気をくれた? 不変の信頼感?……そこまで堂々とされたら、世間を敵に回そうと不倫の美学でも唱えたくなるな」
兄は歯に衣を着せない私を見て、冗談めかして口角を上げる。
「お兄ちゃん……」
くだらない戯言だと思った?
蔑むどころか、呆れ果てて笑い飛ばすしかないって思ったの?
口を極めて言葉を並べたものの、兄の反応の意図が読めず、不安になる。
自分たちの都合のいいように不倫を正当化していると、美化していると思われても仕方がない。
こんな倫理観に背いた発言が、兄であってもすんなりと受け止めてもらえると思っていたわけでもない。
……いや。兄妹であるからこそ、この関係の理解を求める私が愚かなのかもしれない。
「お兄ちゃん……お願い。お母さんには絶対に言わないで。家族には絶対に迷惑かけないから。彼の家庭を壊そうだなんて考えてないから、絶対にっ」
「……俺は、亜紀を責めてるつもりはない。ただ、おまえがあまりにも大人の女になっちまってて……兄ちゃんは反応に困るだろうがっ」
縋る私から視線を逸らした兄は、戸惑うように眉をひそめた。
「今はこんな風采の上がらない男に成り代わっちまったけど、俺だって数年前まで意外とモテたんだぞ。大人の事情に疎いわけでも、亜紀の気持ちが分からんわけでもない。
……いや、そんな話をしてるんじゃないか」
頭をガシガシと掻き出した兄は、気まずそうに苦笑いを浮かべた。
コメント
1件
ねえ柏木さくらさん、今回の「帰省(7)」めちゃくちゃ刺さりました…😭💔 亜紀の「離婚しなきゃいけないの」って告白、もう胸が締め付けられる思いでした。兄ちゃんの「どこで道踏み外してそんな擦れた大人になったんだよ」って台詞が痛すぎて…でもその後に「俺は亜紀を責めてるつもりはない」ってフォロー入れるとこ、ホント兄ちゃん良い人すぎる😢 亜紀が「彼が私の心を解放してくれた」って言うシーン、不倫関係って簡単に否定できない複雑さがあるよね…。作者さんの描く人間の弱さと強さがリアルで、毎回引き込まれてます✨