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#大人ロマンス
桃下結衣
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「数年前までモテてたって、ちょっと切ない響きがあるよね」
動揺を隠せない兄を見つめながら、わずかに口元を緩ませた。
「仕方ないだろ。救いようのないダメ男にまで、一気に転げ落ちたんだから」
机にもたれ掛かる兄は、拗ねたように口を尖らせた。
妹を気遣う笑顔と優しい言葉が心に沁みて、次第に心身が解れていく。
「勿論、母さんには言わない。このことは俺の胸だけにしまっておく。だけど、神奈川へ移る理由と離婚については、どのタイミングで母さんに話すつもりだ?」
一息ついて、兄が会話の舵を取る。
「循環器病センターに誘われてることは、離婚とは関係がない。だからお母さんには、『専門医としての経験を積むために必要』だって、上手く話すから。離婚の件は、お母さんの病状が落ち着いてから打ち明けるつもり」
「……そうか。旦那の愛人に子供ができたと言ったが、そっちは大丈夫なのか? すんなりケリが付けられるのか」
「すんなりとはいかないと思う。おそらく、離婚届に判を押してもらうにも時間が掛かる。だとしても、お母さんの病状を考えると悠長なことは言っていられない。離婚はさておき、何としても関東に行かなきゃ」
腹を決めた私は辺りの空気を貫くように言って、兄の目を見つめ返す。
「自分を変える勇気を与えてくれた人か……なるほどな。おまえ、本当に勇ましい女になったよ。……どんな奴?」
「え?……」
「今のおまえを支えてくれてる男だよ。たぶんだけど、年上だろ? どんな男か見てみたいな」
私の顔を覗き込むようにして、兄が薄ら笑いを浮かべた。
「うん。四十六歳の人」
「よ、四十六!?」
「温かくて穏やかで、とても素敵な人。お母さんに会わせることは難しいけど、お兄ちゃんにならいいかな」
今泉さんの顔を思い浮かべ、無意識に顔が緩む。
「ま、待てよ! 俺より十歳上ってこと!?」
「シッ! お兄ちゃんっ、声が大きいって。お母さんに聞こえちゃう」
鳩が豆鉄砲を食ったような顔をする兄。
私は慌てて椅子から立ち上がり、兄に手を伸ばしながら扉の向こう側に意識を飛ばす。
「お、おお。悪い悪い。つい……」
顔を引きつらせる兄は、ガラス越しの夜空を見上げながら、また頭を掻いた。
なだらかに裾が広がる山頂には、夕焼け色に染まる薄雲が緩く流れる。
「亜紀ちゃん、暖かくなったらまた帰っといで。亜紀ちゃんが好きな鮎飯を作って待っとるで」
松本のお婆ちゃんが目尻に幾つものしわを刻み、柔らかな笑みをくれる。
「ほおだ。今度は旦那さんや友達も連れて来たらええ」
足の悪い奥さんに肩を貸しながら、松本のお爺ちゃんは満面の笑みを浮かべた。
「……あ、うん。そうだね」
山間を抜け、田園地帯を渡る夕風は、頬を切るように冷たい。
昨日から夫の話題になるたびに気まずくなり、見送ってくれる近所の人々に笑顔を向けながら、思わず肩を竦めた。
「これ、べっぴんさんの友達に食べて貰って。あんこときな粉の両方入っとるで」
そう言って、母はおはぎの入った紙袋を私に渡す。
「ありがとう、麗香が喜ぶよ。……あの、お母さん」
何か言いたげな顔をして、私は口をもごつかせる。
「……ん? どうしたの?」
紙袋を両手で受け取ったまま動きを止める私を見つめ、母が両眉を引き上げて首を傾げた。
「あ……うん、今月はちょっと難しいけど、来月のどこかで平日の休みを取って来るから。また、休みがはっきりしたら電話する」
「また来月に? あんたは当直やら呼び出しやらあって忙しいんだで、そんな心配せんでも大丈夫よ。兄ちゃんが側におるで、亜紀は安心して仕事頑張ればいい」
「ほおだ、わしらも母ちゃんに何かあったらすぐ駆けつけるで。亜紀ちゃんは大きな病院でいっぱい勉強して、いつかはこの町の救世主になっとくれ」
松本のお爺ちゃんは、奥さんの痛めた膝に手を当てながら声を弾ませる。
「爺さん、バカ言ったらいかんよ。大学病院に勤める偉いお医者様が、こんな田舎に来たって宝の持ち腐れじゃないか。
亜紀ちゃん、たまに帰って来たらまた膝をさすっておくれ。亜紀ちゃんにさすって貰うだけで痛みが取れるよ。
リハビリのためだけに山を下って病院へ行くより、亜紀ちゃんとお喋りしながら撫でて貰う方が、治る気がするでなぁ」
お婆ちゃんは微笑んで、私の二の腕を優しく撫でながら言う。
風が吹き、樹々の葉が辺り一面でささやくようにカサカサと揺れる。
夕風に煽られるように、電線に不揃いに止まっていた雀の群れが、茜色の空に向かって一斉に飛び立った。
「電車に乗り遅れるから、そろそろ行くぞ」
軽トラを垣根に横付けしていた兄が、窓ガラスを下ろして私に声を掛ける。
「うん、いま行く。……じゃあ、また近いうちに来るから」
私は母と松本夫妻に満面の笑みを向け、別れの挨拶を交わすと、土の香りがする車に乗り込み、生まれ故郷を後にした。
「来月の平日に帰ってくるって話、母さんの病院に行くつもりなんだろ?」
ハンドルを握る兄が、長く続く曲がりくねった山道に視線を向けたまま、ぽつりと言った。
「うん、直接主治医に病状を聞こうと思って。関東に連れて行くには、今までのデータと紹介状が必要だし、私が話をした方が早いから」
私は兄の横顔に目を向け、エンジン音だけが響く車内に静かな声を落とす。
「ああ、そうだな。俺がついて行ったとしても、難しい説明をされても分からない。専門用語を並べられてもさっぱりだ。おまえが先生と直接話して、転院の段取りをしてくれるなら安心だ」
「ごめんね、お兄ちゃん。本当ならうちの病院で治療をしてもらいたいの。だけど……」
「言わなくても分かってるよ。母さんを連れて行けるような環境じゃないんだろ? 最悪の場合、孕んだ愛人が職場に乗り込んでくるかもしれないしなぁ」
相変わらずの調子で冗談交じりに言って、兄は口元を歪めて苦笑いする。
「乗り込んで来るも何も、同じ病院のナースだもん。乗り込まれたのは病院じゃなくてマンション。……掻き混ぜるだけ掻き混ぜて、逃げるように退職しちゃったけど……」
――このままで終わるとは思えない。
あの娘には、遼を奪うための目論見があるはず。
あんな女に私が築き上げた地位を汚され、守ってきた環境を壊され、今の夫婦仲がどうであれ夫をくれてやるのは癪に障るけど……
遼から逃れるために、家族を守るために、今は私が去るしかない。
遼が私を解放しない限り、彼女のターゲットは変わらない。長い年月を掛け、嫉妬で塗り固められた毒矢は、迷いなく私に向かって放たれる。
楓ちゃんが思う「永遠の愛」を手に入れるためならば、彼女はきっと手を血に染めることすら厭わない。
――それほどまでに、彼女の愛は歪みきっている。
「同じ病院のナースが相手!? マンションに乗り込まれたぁ!?」
仰天して、頭のてっぺんから抜けるような声を上げる兄。
思わず私に視線を向けた拍子にハンドルがぶれ、助手席の窓ガラスに車道側へ伸びた枝が当たり、ガサガサと騒々しい音を立てる。
「お兄ちゃん! 前っ! 前っ!」
「おおーっと! 悪い悪い。……って、おまえはどこまで現実離れした刺激的な生活してんだよっ」
ハンドルを切り直した兄が、ため息交じりに言う。
「現実離れ? ナースとドクターの不倫話なんて日常茶飯事だよ。既婚者ドクターが相手を妊娠させちゃうのは珍しいかもしれないけど」
……妊娠は、最初から楓が仕組んだこと。
不倫相手を奪うために安全日だと偽って避妊をさせず、妊娠を狙って行為をしていたなんて……身の毛もよだつとは、まさにこのことだ。
「とにかく、転院の手配は私がする。お兄ちゃんには、神奈川で処置を受けるようにお母さんを説得してほしいの。お母さんはお兄ちゃんに遠慮してる。お金のことなら心配いらない。循環器病センターは大学よりもずっと給料がいい。センターの創立者である主任教授からの直々の誘いなの。遼に返すお金も含め、融通を利かせてもらえるようにお願いしてみる」
「融通を利かせるって……出世払いみたいな?」
「まぁ、簡単に言えば。今後二年間、向こうで当直と休日出勤を頑張って、今ある私の貯蓄を合わせれば、遼に借りた五千万のうち三千万は私一人で返せる。全額返すまでにそんなに時間はかからないはず。お父さんが残してくれた私達の家は、売らなくて済むわ」
フロントガラスに映るのは、どこまでも続く夜の闇。私はヘッドライトに照らされた数メートル先のアスファルトに目を向け、小さな明かりで闇を突き進む私達の未来を重ね見る。
「二年間で三千万!? ……ったく。昨日からおまえには驚かされてばかりだな。本当、たくましい妹だ。俺も、うかうかしていられないな……」
兄は正面に視線を向けたまま、口角をくっと上げる。
その表情からは、意を決した力強さが感じられる。
コメント
1件
読了したよ〜😭💕 第136話、めっちゃエモかった…! 兄に「四十六!?」って驚かれて照れる亜紀、尊すぎるでしょ。アラサー女医×年上おじさん推しとしてはたまらん構図…! でもそれ以上に、転院や返済計画を冷静に進める亜紀の芯の強さに痺れたよ。「二年間で三千万」の覚悟、マジで勇ましい…こんな妹が欲しかった😂✨ 松本夫妻や母との別れのシーンも、故郷のぬくもりが詰まっててじんわりきたなぁ。次は来月、母を連れて行くために動くのか…亜紀の未来、応援したくなるエピソードだった!🌸