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宙
133
宙
62
きゆう
39
え ー た ん !
5,148
温室を出るころには、雨は壁のようになっていた。
旧温室で見つけた研究日誌は油布で包み、サンタナが胸元へ抱えている。
「橋の迂回路は使うな。泥が崩れる」
「分かりました」
来た道をそのまま戻れない以上、二人は岩場沿いの細い道を選ぶしかなかった。
雨に打たれた地面は滑る。
シュエルの裾には、旧温室へ向かう途中で踏みかけた魔力液の泥がこびりついていた。青白い染みが薄く光っている。
「その服、城に着いたらすぐ洗浄だな」
「これくらいなら――」
「魔力液だぞ」
サンタナが振り返る。
「肌に残ったら炎症が出る。そこは俺の言うことを聞け」
シュエルは一瞬だけ口をつぐんだ。
以前なら、命令されること自体に反発していたかもしれない。
けれど今は理由が分かる。
「はい」
「……素直だと逆に怖いな」
「理由を説明してくれたからです」
サンタナは少しだけ笑った。
*
城へ戻ったころには、二人ともずぶ濡れだった。
研究日誌をレーネへ渡すと、彼女はすぐに乾燥処置へ回した。
「服は警備宿舎の洗浄室を使って。魔力液なら普通の水では落ちないから」
そう言われ、シュエルはサンタナに案内されて宿舎へ向かった。
問題はそのあとだった。
「着替えがない」
洗浄室の前で、シュエルは自分の荷物を思い出した。
予備の服は庭園側の宿舎に置いたままだ。
「ここで待ってろ。取ってくる」
サンタナが言った。
「この雨の中を?」
「じゃあ、その服を着たまま待つのか?」
青白く染まった裾を見て、シュエルは黙る。
サンタナは自室へ入り、しばらくして白いシャツを一枚持って戻ってきた。
「これでいいなら貸す」
「あなたの?」
「他に誰のがあるんだ」
受け取ると、大きい。
袖を見ただけで、自分が着れば手が隠れると分かる。
「……ありがとうございます」
「笑うなよ」
「まだ笑ってません」
「顔がもう笑ってる」
*
洗浄を終えて袖を通すと、やはり大きかった。
裾は膝の少し上まであり、袖は二度折っても長い。
シュエルが宿舎の小さな談話室へ戻ると、サンタナは椅子から立ち上がり、そして固まった。
「何ですか」
「いや」
「変ですか?」
「そうじゃなくて」
視線が一瞬泳ぐ。
「思ったより……でかかったな、俺の」
「そうですね」
シュエルが袖口を持ち上げると、サンタナは顔を逸らした。
暖炉の火が小さく鳴った。
外ではまだ雨が続いている。
命の危険を抜けたあとの静けさが、急に現実味を持って押し寄せてきた。
シュエルは向かいの椅子へ座る。
「さっき、温室へ行く途中で」
サンタナが先に口を開いた。
「俺、また見落としただろ」
「はい」
「そこは否定してくれてもいいんだけどな」
「事実なので」
サンタナは苦笑した。
けれど、すぐ真顔に戻る。
「八年前も同じだった」
シュエルは何も言わず、続きを待った。
「見習いだった俺は、封鎖通路の監視を任されてた。長い時間、何も起きなかった。警報盤の点滅を確認して、そっちに気を取られた」
彼の指が膝の上で組まれる。
「その数秒で、扉が開いた」
「黄昏の映画館で思い出した扉ですね」
「ああ」
サンタナは火を見つめた。
「人影が通った。何かを抱えてた。追いかけた直後に硝子が割れる音がして、警報が鳴った」
「誰だったかは?」
「思い出せない。顔も、持ってた物も。そこだけ抜けてる」
シュエルは北庭園で拾った硝子片を思い出す。
あの夜の混乱とつながっている。
「俺が扉を見ていれば、何か変わったのかもしれない」
サンタナは低く言った。
「それから、見落とすのが怖い。誰かを危険な場所へ行かせるのも怖い。お前を止めようとしたのも、多分それだ」
初めて、彼が地下へ行くなと言った理由が完全な形になった。
シュエルは自分の長い袖を見た。
「私も今日、間違えました」
「白茎草のところ?」
「はい。植物の特徴だけで水場だと決めつけた。周囲の魔力まで考えなかった」
「でも、すぐ別の道を見つけた」
「あなたも同じです」
サンタナが顔を上げる。
「見落としたあと、次は獣だけを見ると決めた。私は、失敗したことより」
シュエルは少し考えて、言葉を選んだ。
「次にどうするかを見たいです」
サンタナは動かなかった。
暖炉の火が彼の横顔を照らしている。
「……それ、ずるいな」
「何がですか?」
「そういうことを、その格好で言うな」
シュエルは自分のシャツを見下ろした。
「服と関係あります?」
「ある」
「分かりません」
「分からなくていい」
今度はシュエルのほうが彼を見つめた。
耳が少し赤い。
その理由に気づいた瞬間、自分の頬まで熱くなる。
二人とも黙った。
雨音だけが、やけに大きく聞こえた。
*
しばらくして、談話室の扉が勢いよく開いた。
「二人とも、いた」
レーネだった。
彼女は濡れないよう胸元へ書類を抱えている。
「研究日誌を確認したんだけど、最終ページがない」
シュエルは立ち上がった。
「破れた痕ですか?」
「いいえ。綴じ紐から、意図的に一枚だけ外されている。しかも裏表紙に管理番号が残っていた」
レーネは一枚の写しを机へ置いた。
「同じ番号を、八年前の王都命令書で見つけたわ」
サンタナが紙を覗き込む。
「命令書に?」
「正確には、押収添付資料の欄」
レーネの指が一行を示す。
《添付七四―停止条件研究日誌・最終頁》
シュエルの胸が強く鳴った。
母が残した研究の最後の一枚は、失われたのではない。
王都が持ち去っていた。
コメント
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第6話読みました!雨宿りシーンがもう…!🥺 サンタナのシャツ着たシュエルの「服と関係あります?」「ある」のやり取り、エモすぎて叫びました。お互いの失敗を認め合って「次にどうするかを見たい」って言葉、ずるいよぉ…!あと八年前の話、彼が必死に守ろうとしてた理由が分かって切なくなった。最後の王都の伏線で一気に物語が動きそうで続きが気になりすぎる!🌸