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今でもはっきりと覚えている。
正確には、そこしかはっきりと覚えていない。
中学三年の冬。
学校一怖いと生徒に恐れられている数学の先生は、教室に飛び込んで来た担任の先生をジロリと睨みつけ、廊下に出た。わずか数秒で戻って来た先生は、焦りを隠すことなく私の名を呼んだ。担任の先生は二十代後半の女性で、教室の隅で身体を震わせながら泣いていた。
きっと、教室にいる全員が、私にとんでもなく悲しい何かがあったのだとわかっただろう。
けれど、私は冷静だった。
なぜかはわからない。
名前を呼ばれたから先生の元に行き、促されて教室を出た。
落ち着いて聞くようにと言った数学の先生の方こそ、落ち着いている様子でない。
『ご両親が事故に遭われた。すぐに病院に行きなさい』
どこの病院か、どうやって行けばいいのか、聞きたいことが言葉にならない。
数学の先生は担任の先生をチラリと見てから、教室に入り、すぐに戻って来た。
自習をしているように、といつもの怖声で言っているのが聞こえた。
数学の先生は私の荷物を持っていた。
気が付くと教頭先生もいた。
教頭先生と数学の先生は大学の同期だと聞いたことがある。二人は五十代半ばだが、教頭先生は最近初孫が生まれ、数学の先生は離婚した。
なぜか、そんなどうでもいいことを思い出した。
動揺のあまり全く役に立ちそうにない担任の先生はそっちのけで、教頭先生と数学の先生でいくつか言葉を交わした。
教頭先生は穏やかで生徒からも慕われていた。が、その時の私はなぜか、数学の先生をじっと見ていた。
その視線に気づいた二人は、また言葉を交わし、私は数学の先生に付き添われて病院に向かった。
両親は即死だった。
携帯電話を片手に運転していたトラックが対向車線にはみ出して、両親の乗る軽自動車が衝突を避け、ガードレールに激突したと、後で聞いた。
エアバッグが開く前、父がハンドルを切った拍子に窓に側頭部を強打していたらしく、打ち所が悪かったとも聞いた気がする。
とにかく、私が駆け付けた時、二人は既に霊安室で眠っていた。
私は両親の顔を確認し、数学の先生が買ってくれた温かいお茶を飲み、いくつかの質問に答えた。
頼れる大人はいないかと聞かれて、私は首を振った。
両親から祖父母はもちろん、親戚といった人の話を聞いたことはなかった。
警察官や病院職員が困り顔で私を見下ろす中、先生が学校に連絡し、私の家庭調査票に両親の他にもう一つの連絡先があることを聞いてくれた。
二時間後。
私は初めて祖父母に会った。
父の両親だった。
二人は七十歳くらいで、友達の祖父母に比べて年を取って見えた。
祖父母は私の名前を知っていた。
それだけだ。
ぎこちなく挨拶を交わす私たちを見て、先生は心配そうだった。
その後のことはよく覚えていない。
両親の葬儀は密葬とし、私たち三人と、数学の先生と教頭先生と担任の先生が列席した。
後は、誰だかわからない人たちが数名、お焼香に訪れた。
それだけ。
祖父母の家は私の家から車で一時間ほどの場所で、転校を余儀なくされた。
生まれてからずっと暮らしてきたアパートとの別れは、あっけなかった。
それから、学力云々よりも祖父母の家から近くて通いやすい高校に入学した。
祖父母は穏やかで優しい人たちだった。
両親の葬儀が終わった直後、一度だけ聞いた。
なぜ、今まで会うことがなかったのかと。
祖父母は僅かに眉をひそめ、私の両親の結婚に反対してから疎遠だったからだと言った。
『お前の母親はいい家の娘さんで、あちらも反対していた』
両親は駆け落ち同然で結婚したのだった。
私が生まれたことや名前は知らされたが、どこに住んでいるかなどは知らなかったという。
それ以上は聞けなかった。
音信不通だったとはいえ、一人息子の死に気落ちした祖父母にとって、孫《わたし》の存在は慰めにはならなかったが、近所に住む倫太朗と四人で食卓を囲んでいる時は、祖父母も楽しそうだった。
倫太朗は可愛い顔立ちと優しい性格から友達も多くて女の子にもモテたのに、誰とも親しくなろうとしなかった。
毎日のように祖父母の家に来て、私の部屋で過ごすのが日課のようになっていた。
高校三年の頃に祖父が倒れ、入院生活となった。
私は高校を卒業後は就職して祖父母に恩返ししようと思ったけれど、勉強していい会社に入る方が恩返しになると祖父に言われて、ビジネス系の専門学校に進んだ。
吸収できることはなんでも吸収して、少しでも待遇の良い会社に就職して、祖父母の生活を楽にしてあげたかった。
が、高校卒業から二か月後に、祖父は亡くなった。
祖父の葬儀で初めて会う親戚たちが話していた。
『年金暮らしなのに学生の孫を引き取って、生活が苦しかったんでしょう? 治療も、高額のものは拒否していたって聞いたけど』
『年がいってから出来た息子だから、随分甘やかして育てていたもんなぁ。その息子に駆け落ちされて、自分より先に死なれるなんて、可哀想に』
ショックだった。
私の存在が、祖父の命を縮めたのかと思うと、苦しかった。
祖父の死後、祖母も体調を崩しがちになり、情緒不安定になっていった。
私は学校と家事を頑張った。
それでも、祖母は良くならなかった。
祖母は入院することになり、痴呆症と診断され、借金がわかり、私は学校をやめた。
生活に余裕がなかった両親は最低限の生命保険にしか加入しておらず、葬儀費用と医療費、事故で破損したガードレールなどの修復費用、アパートの退去費用でなくなる程度だった。
借金は、私の専門学校進学と、祖父の治療の為だった。
祖父母の加入していた保険はかなり古いもので、入院一週間後から一日五千円、上限六カ月、死亡時二百万だった。
いくら高額医療費の申請が出来るといっても、自己負担金は発生する。
結局、私が学校をやめても借金は返済できなかった。
その上、祖母が入院する前に、自らの入院費として更に借金を重ねていた。
痴呆症による認知機能低下のせいだったろうが、どうしようもなかった。
私は祖母を説得し、家を売った。
とは言っても、家自体は築四十年を過ぎていて価値はなく、家を解体して更地にした状態ならば買い取ってもいいという不動産屋に、更地にする費用を引いた価格で買い取ってもらった。
手続きを手伝ってもらった、祖父の葬儀で会っただけの父の従兄弟という人は、祖母が生きているのに帰る家を売るなんてと非難したけれど、借金の額を知った途端に何も言わなくなった。
そして、私はあのボロアパートで暮らし始めた。
私は清掃会社に就職し、スーパーやビルの清掃をした。
清掃の仕事は、場所によって勤務時間が違い、移動兼休憩時間に祖母を見舞ったり、市で開催している料理や栄養学の講座を受講したりした。
ゆくゆくは祖母の面倒を見たいと思ったからだ。
介護の講座も受講しようと考えていた頃、祖母が亡くなった。
私の二十歳の誕生日だった。