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夕方、昇万が古本屋から鼻先を赤くしてやって来た。片手に紙袋、もう片手に眼鏡拭き。店を閉める前に呼ばれたらしいが、本人はむしろ面白そうにしている。
「どれどれ、海から上がった札ってのは」
昇万は机の前に腰を下ろし、例の札を顔の近くまで持ち上げた。老眼鏡を押し上げ、首をひねる。
「たしかに変だな。『命に終わるまで』じゃ、文として引っかかる」
「書き間違いでしょうか」
芽生がたずねると、昇万はすぐにはうなずかなかった。
「書き間違いってのは、本人が急いでる時に出る。でもこの筆の止め方、雑じゃない。妙に丁寧だ」
「じゃあ、わざと?」
「かもしれん」
啓介は黙って聞いていた。わざと。そんな言葉を聞くと、札の向こうに急に人の息づかいが立ち上がる気がした。
芽生は札を机に戻し、指先で文字の間をたどった。
「その人にとっては、これが正しい言い方だったのかもしれませんね」
「どういう意味」
「たとえば、誰かと別れる話じゃなくて、終わりかけた気持ちをつなぎ止める話だったとか」
昇万が「ほう」と口角を上げる。
「記録屋のくせに、言う時は言うねえ」
啓介はそこで、ふいに赤いリボンへ目を向けた。結び目が、胸の奥のどこかを引っぱる。押し入れ。薄暗い木の匂い。小さな手。ほどけないように結ばれた赤――
「啓介?」
芽生の声で我に返る。啓介は思った以上に強く机の縁を握っていた。
「顔、悪いけど」
「……いや」
そう返しながらも、視線はリボンから外せない。見たことがある。たぶん。けれど、どこで、誰が。そこだけが霧の中みたいに曖昧だった。
昇万がその様子に気づき、札よりも面白いものを見つけた顔になる。
「おや。何か引っかかったか」
「別に」
「その“別に”は、たいてい別にじゃない」
啓介は小さく息を吐いた。
「子どものころ、離れの押し入れで、似たようなのを見た気がするんです」
場の空気が変わる。
美恵が帳面を閉じた。
「押し入れ?」
「でも、はっきり覚えてるわけじゃないです。赤かった、くらいで」
芽生は責めるような聞き方をしなかった。ただ一度だけうなずき、「十分です」と言った。その言い方に、啓介は少し救われる。
外では、港から低い汽笛が聞こえた。
沈んだ船から上がった札と、離れの押し入れの記憶。
ばらばらだったものが、どこかでつながり始めている。
そんな気配だけが、確かにそこにあった。
#海辺の町