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翌朝、啓介は一人で離れの押し入れを開けていた。襖は少し歪み、滑らせるたびに木の粉が落ちる。中には座布団の骨だけになった綿布団と、使われなくなった火鉢、欠けた湯のみ。見覚えのあるような、ないようなものばかりだった。
記憶の底にあるのは、もっと小さいころの景色だ。母の背中。押し入れの暗がり。赤いもの。だが、掴もうとするとするりと逃げる。
「一人で探すと、たいてい見つからない顔してますね」
振り向くと、芽生が襖の外に立っていた。朝なのに、もうメモ帳は開いている。
「そんな顔ですか」
「はい。肩が上がってます」
啓介は無意識に肩を下げた。芽生は押し入れの縁に手を置き、中をのぞく。
「何を思い出したいんですか」
「思い出したいっていうか……たぶん、誰かがここで泣いてた」
「ここで?」
「いや、分からない。泣いてたのか、座ってただけなのかも」
自分で言いながら、あやふやさに嫌気が差す。啓介は襖を閉めかけたが、そのとき、美恵が廊下の向こうから声をかけた。
「ちょうどいい。二人とも、帳場に来て」
帳場には、古い書類の束がいくつか並べられていた。美恵はそのうちの一冊を開き、角を押さえる。
「昔の出入りメモ。正式な宿帳ってほどじゃないけど、離れを使った人の書きつけが混ざってる」
「そんなの残ってたんですか」
「全部じゃないけどね。しかも雑」
美恵は紙をめくりながら言った。
「離れ、昔は避難部屋みたいに使われてたの。台風の晩とか、家で一人にさせられない子とか、具合の悪い人とか」
芽生の鉛筆が止まる。
「避難部屋……」
「住職の家だけじゃ抱えきれない時に、こっちを開けてたみたい。食べ物の記録も少しある」
啓介は帳面に落ちた美恵の指を見る。墨の跡が薄く残っている。
「それ、母も関わってたんですか」
「たぶんね。細かい世話は、お母さんがよくやってた」
胸の奥で、ばらばらの記憶がかすかに音を立てる。押し入れの前にしゃがむ母。差し出される湯のみ。赤いリボン。
啓介は口を開きかけたが、言葉が形になる前に止まった。
芽生が帳面をのぞき込み、静かに言う。
「建物だけじゃないですね。ここに残ってるの」
啓介はうなずけなかった。ただ、そうだと思った。
言えないまま、そうだと思った。
#海辺の町