テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
白鴎婚礼祭を十日後に控えた朝、王宮誓約局は、まだ鐘も二つしか鳴っていないのに、もう紙の匂いでむせそうなほど忙しかった。羊皮紙の束、乾き切らない封蝋、角の欠けた印章、呼び鈴の音。机を並べた部屋の真ん中で、アーダは一枚の婚姻記録を両手で持ち上げ、眉間にしわを寄せていた。
花婿の家名の綴りは東方式、封蝋の色は北方式。書式だけならありえなくはないが、これほど几帳面に整えられた一件だけ、そこだけが噛み合っていない。紙の端を指でなぞると、わずかに削り跡もある。書き直したのだ。
「……おかしい」
小さくつぶやいた声は、隣の卓の年配書記にも届かなかった。アーダは書類束を抱え直し、誓約刻印機のある小部屋へ急いだ。普段なら技師長ピエルジュゼッペを待つ。けれど白鴎婚礼祭前に機械が狂っていたら、被害は一件で済まない。そう思うと、胸の奥に昔の苦い熱がよみがえった。実家の仕立て屋で、自分の転記ミスが帳面を一行ずらし、布代の請求先を誤らせた日。父が黙って頭を下げた背中を、彼女はいまでも忘れていない。
小部屋の窓から海の光が細く差していた。刻印機の青銅の胴には、文言選別盤と印圧調整具が並び、その背後で装飾鎖がきらりと光る。王家の古い意匠だと聞いていたが、ただの飾りだと思っていた。
アーダは設定盤を確かめ、息を止めてから、小さな赤い突起に指を伸ばした。
「不具合なら、ここを一度――」
リセットボタンを押した瞬間、機械の腹が低く鳴った。
ひゅ、と息を呑む間もなく、装飾鎖が白銀に発光し、蛇のようにほどけた。扉が外から開き、書類束を抱えた男が顔を覗かせる。
「追加の――」
そこまで言ったヴォロジャの手首に、銀色の光が飛んだ。
「え」
「えっ」
次の瞬間、しゃらり、と澄んだ音がして、アーダとヴォロジャの右手首が一本の銀色の鎖で繋がっていた。
近衛騎士の制服の袖口から覗く手首は日焼けしていて、アーダの白い指先とは妙に似合わない。似合わないはずなのに、その不釣り合いさが、かえって彼女の鼓動を速くした。
「失礼、動くぞ」
ヴォロジャが一歩下がる。アーダも慌てて動く。だが歩幅が合わず、二人そろって机の角にぶつかった。紙束が舞い、呼び鈴が落ち、隣室から悲鳴が上がる。騒ぎを聞きつけた人々に追い立てられるように廊下へ出ると、今度は厨房から料理人が飛び出してきた。
「こっちへ来るな! 祭り菓子が並んでる!」
逃げる方向も同じになってしまい、二人は長卓の間に突っ込んだ。銀鎖が卓の脚に一瞬ひっかかり、アーダの足がもつれる。受け止めようとしたヴォロジャまで巻き込まれ、どさりと床へ倒れ込んだ。
その拍子に、盆の上の小さな焼き菓子が一斉に宙を舞う。蜜の艶を帯びたそれは、厨房に広がる甘い香りの中に、場違いなほど刺激の強い匂いを混ぜた。
「に、にんにく……?」
「厄払い菓子だ! 踏むな!」
菓子担当のパスコが顔を真っ赤にして叫んだ。さらに厨房長が腹の底から怒鳴る。
「つまみ食い禁止令だ! 今この場で一個でも消えたら、全部の口をこじ開けて匂いを嗅ぐぞ!」
混乱の最中でも、その言葉だけは妙に響き渡り、若い料理人たちが一斉に口を押さえた。何人かは明らかに後ろめたい目をしている。アーダは倒れたままその顔ぶれを見て、こんな騒ぎでも人は隠しごとをするのだ、と変なところで冷静になった。
やがてピエルジュゼッペが到着し、銀鎖を見るなり顔色を変えた。
「誰が刻印機に触った」
「……私です」
「誰を繋いだ」
「俺です」
低い声が二つ重なる。技師長は目を閉じ、一度だけ深く息を吐いた。
「最悪ではない。だが、かなり面倒だ」
ヴォロジャが、アーダを庇うように半歩前へ出る。
「装飾具の誤作動でしょう。俺たちはただ――」
「ただの事故です」
二人がほとんど同時に言った瞬間、銀鎖がきりりと縮み、手首に冷たい痛みが走った。
アーダは思わず声を漏らした。ヴォロジャが反射的に彼女の肘を支える。近い。近すぎる。騎士の外套から、日向に干した布の匂いがした。
ピエルジュゼッペの眼差しが、わずかに険しくなる。
「その鎖の前で、取り繕うな」
誰もすぐには意味を聞けなかった。厨房の床に転がった菓子を拾い集める音、蜜の垂れる音、遠くの鐘の音だけが、妙に大きく聞こえる。
やがて厨房裏の扉の向こう、港の方角から、ごん、ごん、と石を叩くような音が響いた。厨房の下働きの老婆が顔をこわばらせ、胸元の護符を握る。
「聞いたかい……。地獄門を叩く音だよ」
誰かが笑い飛ばす前に、彼女は震える唇で続けた。
「Knocking On The Hell’s Door……本音を飲み込んだ夜にだけ鳴る音さ」