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その日のうちに、誓約局の奥には簡易の仕切りが立てられ、アーダとヴォロジャは外から見えにくい卓を一つ与えられた。隔離ではない、とピエルジュゼッペは言ったが、どこからどう見ても隔離だった。
「銀色の鎖の存在は伏せる。祭り前に広まれば、婚約話も持参金話も後見契約も、全部が揺れる」
技師長はそう告げ、無骨な指で机を叩いた。
「お前たちは本日より合同調査担当だ。記録改変の経緯を洗う。解く方法を探す。勝手に泣くな。勝手に開き直るな。勝手に好いた腫れたを始めるな」
「最後だけ妙に具体的ですね」
「うるさい」
ヴォロジャが肩をすくめると、アーダはますます顔を上げづらくなった。好いた腫れたなど、思う余地もない。ないはずなのに、繋がれた手首の先に相手の体温があるだけで、呼吸の間合いまで気になってしまう。
問題は移動だった。廊下では並んで歩くしかなく、書庫では同じ棚の前に寄らねばならず、庭を横切る時は、肩先が触れそうな距離を保つしかない。布を巻いて鎖を隠しても、距離までは隠せない。
そのせいで、昼前には侍女たちの間に妙な噂が走り始めた。
「見た? さっきの二人」
「見ましたとも。あの歩幅、どう見ても秘密の仮婚約ですよ」
「仕事中に?」
「だから秘密なんでしょう」
柱の陰からひそひそ聞こえる声に、アーダは耳まで熱くした。ヴォロジャは聞こえていないふりをしてくれたが、その横顔の耳先が少し赤いのを、彼女は見逃さなかった。
そこへ、空気をさらにかき回す男が現れた。若い貴族アリツである。絹の上着をひらつかせ、彼は二人を上から下まで眺めて、口元に面白がる笑みを浮かべた。
「それじゃ恋人には見えませんね」
「見せる必要はありません」
アーダが即答すると、アリツは楽しそうに片眉を上げる。
「そこです。そうやって逃げるから、余計に疑われる。恋人らしく見せたいなら、歩く時に相手の歩幅を気にするんです。あと、見つめ合う回数が足りない」
「足りなくて結構です」
「へえ。じゃあ見つめるのはお嫌いで?」
「そ、そういう話では――」
言い返す途中で、隣のヴォロジャが小さく咳払いした。アーダが横を見ると、彼は困ったように笑っている。誰かに強く出られても場を荒立てず、やわらかくかわす顔だ。その穏やかさに助けられている人は多いのだろう。だが、いまはその余裕が少しだけ腹立たしかった。
午後、二人は厨房へ呼ばれた。床に散った祭り菓子の数を点検していたパスコが、眉をつり上げて箱を示す。
「落ちた分は全部回収した。だが数が合わねえ」
「踏みつぶされたのでは?」
アーダが問うと、パスコは首を振った。
「蜜の跡が少ない。踏まれたなら床にもっと残る。つまり、何個かは騒ぎのさなかに持ち去られた」
「にんにく入りなのに?」
ヴォロジャが素直に驚くと、パスコは胸を張った。
「にんにく入りだからうまいんだ」
それはそれとして、とアーダは空箱の底を調べた。木箱の縁に、ごく薄い蝋のこすれ跡がある。菓子箱を運ぶ時に付くものではない。封蝋のついた紙か帳面を、ここへ一時的に隠した痕だ。
「記録改変と菓子の持ち去り、別ではないかもしれません」
「同じ日の混乱を利用した、ってことか」
「はい。人が多いほど、誰もが誰かを見落としますから」
その夜、二人は技師長の指示で鎖の状態を確かめることになった。誰もいない中庭の回廊で、試しに距離を取る。五歩までは伸びたが、六歩目で鎖が石畳の上に火花のような光を散らし、戻れとでも言うように震えた。
「厄介ですね」
「厄介だな」
思わず同じ言葉を口にし、二人は顔を見合わせた。アーダは気恥ずかしさを誤魔化すように言い足す。
「こんなの、迷惑なだけです」
「俺もそう思――」
言い終える前に、鎖がぎゅっと縮んだ。アーダの体がふらつき、ヴォロジャの胸にぶつかる。硬い。息を呑んだ拍子に、彼の心臓の音がすぐ近くで鳴った。鎖の冷たさと、その向こうの体温のあたたかさが、余計に彼女を混乱させる。
「すまない」
「い、いえ」
離れようとしても、すぐには離れられなかった。鎖が短くなったままだったからだ。迷惑だと切り捨てた瞬間に、むしろ距離が詰まる。そういう仕組みなのだと、身をもって知らされた。
回廊の外では、海風にあおられた木々がざわめいていた。アーダは自分の鼓動が落ち着くまで、月明かりの石畳を見つめるしかなかった。