その時真子は、斜め後ろの会話を聞いていた。
(長谷川君、建築学科を受けるんだ…)
真子は現在地元の小さな美大受験予備校に通っている。
本当は横浜にある大手予備校に通いたかったが、高校三年生向けの講座は毎日夜九時まである。
通学の負担と帰りが遅くなる事を考えると、そこは諦めざるを得なかった。
そして地元の予備校を選んだ。
真子が通う予備校は週三回で、自宅からバスで10分ほどと近い。
身体に負担のかからないスケジュールも、真子にとってはちょうどいい。
正直、大手の予備校の方が受験対策に精通していて有利だと思うが、
真子の場合は、身体に負担をかけないという事が必須だ。
しかし、小さい予備校にもそれなりに利点がある。
少人数制なのでサポートが手厚く、通ってみるとなかなか快適だ。
だから今は地元の予備校を選んで良かったと思っている。
真子が通う予備校にも、建築学科を希望する学生が何名かいた。
そのほとんどが男子学生だ。
建築学科を受ける学生は、デッサンの授業しか受講しないのですぐに分かる。
(長谷川君はどこの夏期講習に行くんだろう?)
真子はこの学校に美大や建築学科を受験する友達がいなかったので、
拓が建築学科を受験すると知り、少し興味を持ち始めていた。
一時間ほど経過すると、教師の葛城が一人一人の指導に回り始めた。
生徒達の画用紙の上には、それぞれのデッサンがだいぶ出来上がっている。
今日のモチーフは、直方体の木材とワインの瓶、そしてリンゴ。
モチーフの下には柔らかい白い布が敷かれていた。
どれも真子の得意とするモチーフだったので、手慣れた様子で鉛筆を走らせる。
その時、真子が指導される番が来た。
「宮田君は、うん…なかなかいいじゃないか! それぞれの質感がとても良く出ている。えっと、君は横浜女子美大を希望だっ
たね?」
「はい…」
「今の調子で行けば大丈夫だろう。学科の方も頑張れよ」
「はい。ありがとうございます」
真子は指導が終わりホッとした。
そして、再びデッサンに集中し始める。
すると、今度は斜め後ろで葛城の声が聞こえた。
「長谷川はパースをもうちょっと勉強した方がいいな」
「パース?」
「そうパースだ。遠近法の事だよ。お前は将来建物を作りたいんだろう? それにはパースは重要だ。
デカい建物なんかを作る場合には特にね。建築物は設計図と共に建物のイメージ画も必要だからなぁ。
今はパソコンでも作成可能だろうが、やはりきちんとした基礎は身につけておかないとな」
「はあ……」
「エスキースの段階で大体の角度をきっちり抑えておいた方がいいぞ…」
「はぁ……」
「まっ、夏期講習で基礎から教えてくれるだろうから、しっかり聞いて来いよ」
葛城は拓のデッサンのパースの修正をしながらそう言うと、拓の肩をポンと叩いてから次の生徒へ移動した。
二人の会話を、真子はこっそり聞いていた。
そして、拓の深いため息が聞こえる。
(ふふっ、無理もないわ。きっと今までデッサンなんて縁がなかっただろうから……)
真子はそう思いながら、鉛筆を動かし続ける。
それからしばらくして、チャイムが鳴った。
「よーしっ、今日はここまでだ。デッサンは途中でもいいから
名前を書いて提出してくれ。イーゼルは畳んでドアの脇に置いてくれ」
生徒達は立ち上がると、デッサンを葛城まで持って行く。
それから片付け始めた。
真子もサインをして立ち上がった時、斜め後ろの拓が声をかけた。
「宮田さん、すっげー」
「えっ?」
「いや、絵が凄い上手いなと思って…」
「あ、ありがとう」
「美大受けるんだよね? さっき聞こえちゃった」
「うん。出来ればそっち方向に行けたらなーと」
「そんなに上手かったら受かるでしょ!」
「だといいけれど…」
真子は少しはにかんで笑った。
そして、今度は真子が拓に聞く。
「長谷川君も建築学科志望なんでしょう?」
「うん。だからデッサン頑張らないとなんだよなぁ」
「長谷川君は頭いいから大丈夫よ」
「そっかなぁ? でも実技も見られるだろうからちょっと心配」
「大丈夫よ。建築学科が重視するのは学力の方だって聞いた事あるから」
「そうなんだ? 色々詳しいんだね…」
「ううん、たまたま聞いたのよ」
「じゃあついでにもう一つ質問してもいい?」
その時、出口の近くにいた敦也が拓を呼んだ。
「拓、行くぞーっ!」
「おうっ!」
拓は敦也に返事をした後、真子に言った。
「悪い、今日ちょっと急ぐんだ。続きはまた今度!」
「え? うん、分かった…」
真子は少し戸惑ったような表情で言う。
「じゃ、お先っ!」
拓はそう言って手を挙げると、敦也が待つ出口へと向かった。
その日は、拓と真子が初めて言葉を交わした日となった。
コメント
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拓くんは今カノはいなくて真子ちゃんに声掛けしてる?お互いなんとな〜く好感を持ってる感じ⁉️