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教室にはもう誰もいなかった。扉の立て付けの悪い音が、廊下に反響する。
日下部は黙って窓際の席に座り、手元の教科書を開いていた。指先がかすかに震えているように見えたのは、気のせいか、それとも。
遥はドアの前で立ち止まる。
一歩、二歩。
その間に言葉を探すが、喉の奥がきゅうと閉じたまま開かない。
「……」
日下部が顔を上げる。
目が合った瞬間、遥は目を逸らした。
けれど、足は勝手に動いて、日下部の隣の机までたどりついていた。
椅子を引く音が教室に不釣り合いなほど大きく響いた。
「……怒ってる?」
ようやく絞り出した声は、あまりにか細くて、自分のものじゃないようだった。
問いかけたのに、返事は来ない。
日下部は少しだけ目を伏せ、何かを噛みしめるように唇を引いた。
「別に。怒る理由もないし」
それは、怒っていない人間の言い方じゃなかった。
遥は自分の指先を見下ろしながら、言葉を続けようとする。
「……あの、こないだ……っていうか、最近、なんか」
「最近、なんか?」
日下部の声が、少しだけ冷たくなる。
明確な拒絶ではなく、“確認”の形をとった皮膚の奥を撫でるような否定。
遥は、言葉を継ごうとして、ふと気づく。
この会話はもう、以前のように「冗談でごまかす」やり取りじゃ通じない。
「……ごめん」
小さな声でそう言った遥の顔を、日下部は見なかった。
風が窓の隙間から吹き込んで、紙の端をふるわせる。
「お前が謝ることじゃねえよ」
そう言う声が、どこか乾いていた。
優しさではなく、距離の中で形骸化された“正しさ”だけが残っていた。
「じゃあ、誰が?」
遥がぽつりと返す。
それは自分でも予想していなかった言葉だった。
その瞬間、日下部の指が止まった。視線が、ゆっくりと遥の横顔をとらえる。
「……俺は、お前のこと、信じてる」
それは日下部がずっと言わなかった言葉だった。
でも、もうその言葉だけでは、守りきれない何かがあることも、ふたりとも知っていた。
だから遥は――笑わなかった。
ただ黙って、小さくうなずいた。
机の上の光が、ふたりの間に落ちて、沈黙を照らした。