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その世界は、あまりにも静かに、そしてあまりにも残酷に緑色だった。
アスファルトを割り、鉄筋コンクリートを砕き、かつて人類が「文明」と呼んだ誇りのすべてを、名もなき蔦が、苔が、巨大な原生林が飲み込んでいく。空は常に植物が放つ胞子で薄緑色に霞み、太陽の光は幾重にも重なった葉の隙間から、まるで海底に届く陽光のように弱々しく降り注ぐ。
十八歳の朔(さく)にとって、それが「世界」のすべてだった。
彼は、かつて『新宿』と呼ばれたらしい廃ビルの屋上で、小さな木箱を抱えていた。中には、真っ白な羽を持つ一羽の伝書鳩――ハクがいる。 「ハク、また頼むよ」 朔は震える指で、ハクの足に結びつけられた小さな筒に紙片を差し込んだ。 返事が来る保証はない。相手が本当に人間かどうかもわからない。けれど、数日に一度、ハクが運んでくるあの『青い便箋』だけが、朔をこの緑の窒息死から救い出してくれる唯一の酸素だった。
数時間後、ハクが戻ってきた。その足には、いつもの青い便箋。 だが、そこにはいつもと違う、震えたような筆跡でこう記されていた。
『もう、手紙では間に合いません。直接、会いに行きます』
その文字を読み終えるのと、屋上の重い鉄扉が軋んだ音を立てるのは同時だった。
現れたのは、少女だった。 この緑色の世界には存在し得ない、透き通るような青い髪。そして、深海の底のような、けれどどこか温かい瞳。
「あなたが、サク……ですね?」
彼女の名前はシオン。 彼女は、自分が地球外の血を引く存在であること。そして、植物の暴走を止める鍵が、自分の歌声に隠されていることを告げた。 だが、彼女の告白には続きがあった。
「お母さんは、最後の一行を書き残して消えました。『最高のラブソングを歌うには、心が必要だ。自分以上に誰かを愛したとき、歌は星の命を鎮める慈雨になる』と」
シオンは朔に歩み寄り、冷たい指先で彼のシャツの袖を掴んだ。 「私には、まだ『恋』がわかりません。だから、朔。私に、あなたを愛させてください。そして……私を愛して。それが、この世界を救う唯一の儀式なんです」
朔は絶句した。 彼女の言葉は、人類への福音であると同時に、あまりにも重い死刑宣告に聞こえた。 恋を知れば、彼女の歌は完成する。そして、完成した歌声はシオンという個体を星の意識へと溶かし、この世界から彼女の形を奪ってしまう。
それでも、シオンの瞳はまっすぐだった。 「私、死ぬのは怖いです。でも……誰一人いない孤独な星で、たった一人で歌い続けるのは、もっと怖い」
その日から、二人の「終わりのための恋」が始まった。
二人は「恋」を知るために、古い資料を漁り、かつての恋人たちが訪れた場所を巡った。 水のない水族館。巨大なジンベイザメの骨が天井から吊り下げられた沈黙の空間で、二人は並んでベンチに座った。
「……朔。手を繋ぐのは、どうしてこんなに緊張するんでしょう」 シオンが呟く。彼女の手は、昨日よりも少しだけ青く透き通っている。 「それは、相手の体温が自分の中に流れ込んでくるからじゃないかな。自分と他人の境界線が、少しだけ曖昧になるんだ」 「境界線……」
時計塔の針は、とうの昔に止まっている。 けれど、二人の時間は、それよりも残酷な速さで終わりへと向かっていた。 シオンの体は、腰のあたりまでが既に青い光の粒子と化し、夜の帳(とばり)に溶け込んでいる。
「……ねえ、朔。不思議だね」
シオンが、透ける指先で朔の頬を撫でた。 その感触は、もう実体というよりも、微風が肌を掠める感覚に近い。
「あんなに、世界を救うことが自分の使命だって、それだけが私の価値だって思ってたのに。……いざこうなってみると、世界なんて、どうでもよくなっちゃった」
「……シオン」
「嘘だよ。……半分は、嘘。世界を救いたいのは本当。でも、それは人類のためじゃない。……この歌を歌えば、明日も朔が、この綺麗な朝焼けを見られるから。私が好きになった人が、明日も生きていける。……それだけが、私の歌う理由」
シオンの瞳から、光の雫が溢れ、空中に舞い上がる。
「ねえ、朔。私に教えて。……私の歌は、ちゃんと『ラブソング』になってるかな」
朔は、溢れそうになる涙を堪えて、彼女の、もう感覚を失いつつある手を強く握りしめた。
「なってるよ。……世界中のどんな曲よりも、ずっと。僕の胸には、もう君の歌しか響いてない」
「よかった……。……朔、最後にお願いがあるの。私の名前を呼んで。……『世界を救うハーフ』とか、『文通相手』とかじゃなくて。……ただの、あなたの恋人の名前を」
彼女の輪郭が、激しく明滅する。 周囲の植物たちが一斉にざわめき、星の意識(ガイア)が彼女を迎えようと咆哮を上げた。
「シオン!」
朔は叫んだ。喉が裂けるほどに。
「シオン、愛してる! 行かないでくれ……っ、本当は世界なんてどうなったっていい! 君がいない未来なんて、僕は……!」
「……ふふ、バカだなぁ、朔は」
シオンが、かつてないほど悪戯っぽく、そして愛おしそうに笑った。 彼女の体から、黄金色の光が溢れ出す。歌声が、言葉を超えた純粋なエネルギーとなって世界へ解き放たれる直前、彼女は朔の耳元で、消え入りそうな声で囁いた。
「……私の勝ち、だね。……だって、朔は一生、私のことを忘れられない。……私はあなたの記憶の中で、永遠に、一番綺麗なままで生きていけるんだから」
「シオン!!」
「……大好きだよ、朔。……最高の恋を、ありがとう」
その瞬間、シオンの姿は一筋の巨大な光の柱となって、夜空を貫いた。 歌声が、世界中の植物を、大気を、そして人々の心を震わせる。 あまりに美しく、あまりに切ない、世界で最後のラブソング。
光が収まったあと、時計塔の頂上には、朔一人だけが取り残されていた。 手のひらには、彼女の体温の残り香と、一輪の青い花。
世界は、救われた。 一人の少女の、あまりに純粋な初恋と引き換えに。
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