テラーノベル
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#澪彩文庫本💜🖌
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昼前になると、ホテルの空気は一気に華やいだ。玄関前に白い花が運び込まれ、宣伝用の旗が立ち、音響係が舞踏会用の曲を試しに鳴らしている。四月下旬から五月にかけて開かれる「水平線舞踏会」は、ルーチェ港の名物だ。今年は宿泊客参加型の恋愛企画まで重なり、館内は朝から浮き足立っていた。
その中心で笑っていたのが、従妹のベジラだ。淡い珊瑚色の新作ドレスを身につけ、鏡の前で首を傾げるたび、周囲の視線が集まるよう計算されている。
「どう? 今回こそ、私が運命のヒロインって感じするでしょ」
「よくお似合いです」
ディアビレがそう答えると、セルマがすぐ横から言葉を継いだ。
「もちろんよ。だからあなたには別の役があるの」
嫌な予感は、たいてい当たる。セルマは企画書を一枚めくり、赤い線の引かれた箇所を指で叩いた。
「恋愛企画には、主役を引き立てる相手役が必要なの。少し鼻持ちならなくて、感じが悪くて、でも話題になる女。あなた、表情が強いでしょう?」
「……つまり、嫌われ役をやれと?」
「そう。ベジラを輝かせるための影。ぴったりじゃない」
ベジラは否定もしなかった。むしろ気まずそうに視線を泳がせただけだ。その沈黙が、かえってよく刺さる。
ディアビレは紙を見つめた。断れば終わるのは、自分の立場だけではない。セルマは細い声で、とどめのように言った。
「嫌なら、ルナ・マグを畳んでもいいのよ。あなた一人で守れる店じゃないもの」
喉がからからに乾いた。言い返す言葉は山ほどあるのに、母の店の名を出されると、全部波にさらわれていく。
「……やります」
その返事を聞いたセルマは満足そうに笑った。ベジラは鏡の前で、また主役の顔を作り始める。
ディアビレは企画書を握りしめたまま、窓の外へ目をやった。海は明るかった。自分だけが、影に回ると決まったみたいに。