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「ごめんねぇ、椿ちゃん」
大家さんというおばあさんが、柳田さんの手を握る。
「いいえ。これまで、ありがとうございました。お体に気をつけてくださいね」
「ありがとう……」
衝撃の告白から一夜明け、俺と柳田さんは荷物を運び出すためにアパートに来ていた。
急な退去ではあったが、大家さんが挨拶に来てくれた。
不要な家具家電は、アパートの取り壊し時にまとめて処分してくれることになり、柳田さんの荷物は、段ボール五箱という少なさとなった。
「椿ちゃんも元気でね? こんなにイケメンさんの彼氏との同棲なんて、幸せいっぱいね」
「同棲……?」
大家さんの言葉に、柳田さんは首を傾げる。
「いえ! 同棲ではありません。同居です!」
隙を見せない断固とした否定の言葉が、俺の後頭部を殴りつけた。
「あら、そうなの? でも――」
「――同棲の定義は、恋愛感情を持つ者同士が寝食を共にすることだと認識しておりますが――」
「――ストップ! 柳田さん」
俺は彼女の暴走を止め、耳元に顔を寄せた。
「ここは、恋人と同棲ってことにしておいた方が、大家さんは安心するんじゃないかな」
「ですが! 嘘をつくのは――」
「――大家さんに追い出されて行く場所がないから仕方なく上司と暮らす、ってのは、大家さんも責任を感じると思うよ」
「……っ。そう……ですね」
柳田さんは大家さんに向き直ると、コホンと咳払いをした。
「同棲って言うと恥ずかしがっちゃって」と、俺は大家さんに言った。
「そうなの? いいじゃない、照れなくたって! いいわねぇ。私も五十年若ければしてみたいわぁ、同棲。私の若い頃は、未婚の男女が一緒に暮らすなんて破廉恥だと白い目で見られたけれど、いきなり結婚して後悔するよりずっといいと思うのよ? お試しって大事よね」
「そうですよね。僕も、今回の同棲は結婚前にお互いを知るいい機会だと思います」
「――部長っ!! なにを――」
「――なので、安心してください。椿のことは大事にしますから」
「まぁ! まぁまぁ、いいわねぇ。幸せねぇ、椿ちゃん」
大家さんは頬に手を当て、七十代とは思えない少女のような笑顔を見せた。
「あのっ、いえ――」
「――では、そろそろ失礼します。椿が長らくお世話になりました。本当にありがとうございます」
「えっ!? ちょ、部長!」
「結婚が決まったら教えてね? お祝いさせていただくわ」
「けっ、結婚!?」
「ありがとうございます。その際は、ぜひご報告に伺います。では」
あわあわしている柳田さんの手を握り、うっとりと手を振って見送る大家さんに背を向けた。すっかり荷物を積み終えた車に向かう。
「振り返って手を振ってあげたら?」
「えっ?」
「長くお世話になったんでしょ? 孫を嫁に出す心境じゃない? 安心させてあげたらいいよ」
「よ、嫁!?」
「ほら、早く」
完全に流される形で振り返ると、俺と手を繋いでいない方で、手を振る。
助手席側のドアを開け、彼女に乗るように促した。
彼女は振り返り、長く住んだアパートを見て、それから乗り込んだ。
柳田さんの部屋となった八畳の洋間は、驚くほどあっさりと片付いた。
女性が使うには少し狭いだろうと思っていた二枚戸のクローゼットは、半分しか埋まらなかったから、彼女が持って来たチェストも収まってしまった。
そもそもベッドを使っていなかった彼女は、このまま客用布団でいいと言ったけれど、そうすると布団のしまい場所もないことから、ベッドを購入することにした。
カーテンも必要だ。
それから、マンション周辺も案内しておいた方がいいだろう。
他に今日、明日で済ませておくことはないか。
そんなことを考えていると、時刻は既に十二時半になっていた。
コンコン
半分開いたドアをノックする。
「はい。どうぞ!」
元気な声が聞こえてきて、俺はそっとドアを押した。
「片付け、終わった?」
「はい!」
柳田さんは、部屋の隅に置かれた胸までの高さの本棚を整理していた。
衣類よりも本の方が金をかけていそうなほど、分厚くて高そうな本が並んでいる。
その横には、持って来たローテーブルと座椅子。
彼女の荷物はそれだけ。
「昼だし、買い物がてら食いに行こう」
「はい」
ずっと断られ続けていた食事だが、まさかこんな流れで叶うとは思わなかった。
それにしてもあっさりとした部屋だ。
ぬいぐるみや雑貨なんかが一つもない。
しいて言えば、あるのは本棚の上の写真立て。
「ご家族の写真?」
気になった。
今後はこうして気軽にこの部屋に入ることもないだろうから、聞いてみた。
「はい」と、柳田さんはフレームを拭きながら言った。
「見てもいい?」
「え? あ、どうぞ」
あっさりとしていると言っても、好きな女性の部屋だ。
そこに彼女がいるだけで、今までと空気が違う気がした。
棚の上の写真は三枚。
四十代半ばくらいの男女と、セーラー服を着て、長くて黒い髪をポニーテールにして揺らしている女の子。
六十代半ばくらいの男女と一緒に写っている女の子は、紺のブレザーの制服を着て、ポニーテールが三つ編みになっている。
七十代の女性と写っている女性は振り袖姿だが、それまでかけていなかった眼鏡をかけていて、すっかり今の柳田さんが出来上がっている。
「ご両親?」
俺はセーラー服の写真を指差した。
「はい。中学校の入学式の時です」
「可愛いね」
「え? あ、はい! 母は、とても若々しくて可愛らしい――」
「――きみが、だよ」
「へっ!?」
いつものことながら、どうしてこの流れで俺が母親を褒めていると思うのか。
「モテたでしょ」
「まさか! 全然、全くです」
鈍くて気づかなかっただけだろうな、と思った。
「お祖父さんとお祖母さん?」と、俺はブレザーの写真を指さす。
「はい。両親が亡くなって、中学三年からは祖父母と暮らしていました」
「穏やかさや優しさが滲み出ているな」
「はい。とても……とても優しい祖父母でした。楽な暮らしではなかったのに、私を引き取ってくれて……」
ふと、柳田さんの表情が曇った。
亡くなったご家族を思い出すと、今も辛いのだろう。
「この人は? 弟さん……?」と、俺は三枚目の写真を指差した。
写真には、振袖を来た柳田さんの肩を抱き、顔を寄せている男も写っている。
「いえ、幼馴染みです。二歳年下なのですが、ご両親が多忙だったために一人でいることが多くて、よく祖父母の家に遊びに来ていたんです。私には弟も同然ですね」
「へぇ……」
二歳年下ということは、写真の当時は十八歳。
幼馴染のお姉ちゃん、の肩を抱いて写真に写るだろうか。
胸の奥がモヤモヤする。
「思い出してツラくない?」
「え?」
「写真見たら」
「あ……、いえ。見守っていてくれると思えるので」
「そう。愛されて育ったんだね」
写真の中の柳田さんは、まだ俺が見たこともない、満面の笑顔をしてる。
本当に、幸せなんだと感じる。
「……? 男性は……家族との写真を飾ったりはしませんか?」
「ん? ああ。どうかな。俺は飾らないんじゃなくて、飾る写真がないだけだから」
「そうなんですか?」
「うん」
「写真だけが思い出ではありませんよね」
彼女の、その何気ない言葉が、なぜかやけに俺を動揺させた。
喉の奥に小骨が引っ掛かったみたいに、とても小さな痛みが、気になってたまらない。
きっと、気が付いたのは今だけど、小骨はさっきからあったんだと思う。
『同棲ではありません。同居です!』
大家さんに言った彼女の言葉を思い出す。
『同棲の定義は、恋愛感情を持つ者同士が寝食を共にすること』
つまり、俺は、柳田さんにとって恋愛対象じゃないってことだ。
わかってたけど、言葉にされると結構キツイな……。
そもそも、恋人はいたことがないのにセックスの経験があるってことは、恋愛感情がなくてもデキるってことだ。
柳田さんの貞操観念が低いとは思えないけれど、そういう経験があるってことは、少なからず男女の情とか駆け引きみたいなものは知っているということじゃないだろうか。
「家族の思い出って、どんなの?」
「え?」
「そういうのに縁遠くてさ。教えてよ」
「はぁ……」
「折角、縁があってこうして一緒に暮らすことになったんだからさ」
柳田さんに、俺を男として意識させたい。
俺は腰をかがめて、彼女と目線を合わせた。
基山のような女ならば、間違いなくキスを連想して目を閉じる距離。
いや、基山でなくても、少しくらいドキッとしてしまうと思う。
だから、柳田さんがキュッと唇を結んで上体を仰け反らせた時、少しは照れてくれているのではと期待した。
俺は調子に乗って、彼女が離れた分だけ近づいた。
「大家さんのご期待に添えるように、楽しもう。同棲生活」
だが、当然だが柳田さんは基山ではない。
「同棲生活ではなく、同居生活です!」
俺との距離に、ほんの少しだけ照れているように見えたのは、俺の願望か。
「家族のようにということでしたら、恐縮ではありますが、私を妹だとでも思ってください!」
妹……。
さすがに「わかった」とは言えず、とりあえず俺は背を伸ばした。
「出かけようか」
長期戦を覚悟して、俺は彼女の部屋を出た。