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#海辺の町
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それから数日、莉々夏は門前の甘味処で、啓介は坂の下の店先で、芽生は役場や図書室で、それぞれに聞き込みを重ねた。けれど核心へ近づこうとすると、不思議なくらい皆、別の話へそれていく。
「離れの汁物、おいしかったのよ」
「味噌じゃなくて塩だった日もあった」
「雨の音が、屋根に当たるのを聞きながら食べると、妙に落ち着いてねえ」
なぜか出てくるのは食べ物の話ばかりだった。
昼すぎ、啓介と莉々夏が離れへ戻ると、縁側に見知らぬ女性が座っていた。年は五十代くらいだろうか。きちんと結んだ髪、淡い色の上着、背筋の伸びた座り方。けれど膝の上の手だけが、落ち着かないみたいに指先を重ね直している。
「こんにちは」
莉々夏がやわらかく声をかける。
女性は小さく会釈しただけで、海のほうを見ていた。来客というより、何かを確かめに来た人の顔だった。
啓介は無理に話しかけず、離れの中へ入ろうとした。その時、机の上に出しっぱなしだった赤いリボンが風に揺れ、縁側から見える位置へ転がる。
女性の目が止まった。
その変化は一瞬だったのに、はっきり分かった。息をのむ。肩がこわばる。指先がほどける。
「それ……」
かすれた声が落ちる。
啓介がリボンを手に取るより早く、女性の目に涙がにじんだ。泣くのを止めようとして、かえって間に合わなかったみたいな涙だった。
「どうしたんですか」
啓介が言う。
女性は首を振る。泣き顔を見せまいとするように立ち上がり、それでも赤いリボンからだけは視線を外せない。
「優しい子、だったの」
それだけ言って、踵を返す。
莉々夏が慌てて追おうとしたが、啓介が手で止めた。追いかけたら壊れるものがある気がしたからだ。
女性は坂を下りる途中、一度も振り返らなかった。
縁側には、ほんの少しだけ湿った空気が残る。芽生が戻ってきた時、啓介はまだ、赤いリボンを持ったまま立っていた。
「誰だったんですか」
「わからない。でも」
啓介は唇を乾かす。
「知ってる人だった」
芽生は何も言わず、リボンと坂道の先を見比べた。
名前も名乗らないまま、昼だけ来て、赤いリボンを見て泣いた女の人。
離れが待っていた相手に、急に輪郭が生まれた気がした。