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#海辺の町
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石段の下に立っていた女の人のことは、その夜のうちに皆の知るところになった。けれど、顔をはっきり見たのは啓介と芽生だけで、話はそれ以上進まない。赤いものが見えた気がする、と言っても、夕方の光だったのか髪飾りだったのか、自分たちでも言い切れなかった。
だから翌朝は、昨日のざわつきを脇へ置いて、提出用の清書を整える日にするはずだった。
はずだったのに、離れへ入った美恵が帳場の前でぴたりと止まる。
「……ない」
啓介が振り向く。
「何が」
「清書一式。昨日ここに、束ねて置いたの」
机の上には下書きも聞き書きも残っている。けれど、審査へ出すために整えた札の清書だけが、きれいに消えていた。
享佑がすぐに机の上、棚、引き出しへ視線を走らせる。
「移動した人」
「私は触ってません」
芽生が答え、啓介も首を振る。
「俺も」
莉々夏が「風で飛んだとか……」と言いかけ、享佑の顔を見て口を閉じた。
「飛ぶ量じゃない。紐でくくってあっただろ」
皆が一斉に動き出す。押し入れ、縁側の脇、畳の端、昨夜使った机の裏。誰も怒鳴ってはいないのに、探す手つきだけがだんだん荒くなっていった。
「昨日の女の人、関係あるかな」
義海が小さく言う。
「決めつけるな」
啓介が即座に返す。
その声に自分でも余裕がないのが分かった。鍵の件があったばかりだ。何かひとつ見当たらなくなるたび、場は簡単に疑うほうへ傾いてしまう。
絋規が本堂側の廊下から戻ってくる。
「こっちない。写真の棚も見た」
「帳場の横は?」
美恵が聞く。
「そこも……」
答えかけた絋規の視線が止まった。
帳場机の脇、書類を重ねたいちばん下から、白い紙の角がのぞいている。享佑が無言で引き抜く。見覚えのある束だった。ほどけた紐。赤鉛筆の書き込み。提出用の清書一式。
しかもそれは、美恵の机の陰から出てきた。
見つかったはずなのに、離れの空気はますます重くなる。