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その日学校から帰って玄関に足を踏み入れた途端、妹の栞が廊下の奥の部屋から飛び出してきた。僕の前まで駆け寄ってきて、せかせかした様子で言う。
「お兄ちゃん、瑞月の家に遊びにいこっ!」
「えっ、ちょっと待って。帰ってきたばっかりなんだけど……」
戸惑っているところに母さんがやって来た。
「ごめんねぇ、諒。幼稚園から帰ってきてからずっとこの調子でね。悪いけど、瑞月ちゃんのところに連れて行って、一緒に遊んであげてくれない?あっちのおうちには電話しておくから」
断る理由は何もない。瑞月と遊ぶのは僕も好きだ。だからこくんと頷く。
「分かった。じゃあ、栞、行こっか」
僕はランドセルを部屋に置いてから、手土産にと母さんから渡されたクッキーを持ち、栞の手を引いて家を出た。歩いて数分程先にある、仲良しの幼なじみの家に向かう。
よく知るその家の玄関にたどり着き、僕が手を伸ばす前に、栞がインターホンを押した。
しばらくしてドアがガチャリと開き、瑞月のお母さんが顔を出した。僕たち二人の顔を見てにっこりと笑う。
「栞ちゃん、諒ちゃん、いらっしゃい。お母さんから電話をもらったわ。瑞月と遊んでくれるんですって?」
「うん!そこの公園で遊ぶの。いいでしょ?」
栞は両手を胸の前で合わせて、おねだりするような仕草をした。
おばさんはくすくす笑いながら、栞の頭を撫でる。
「いいわよ。ここからもすぐ見えるし、諒ちゃんも一緒だものね。瑞月ぃ、栞ちゃんと諒ちゃんが来たわよ!」
おばさんは家の中に向かって声を掛けた。
家の奥から、瑞月がぱたぱたと走り出て来た。
「栞、諒ちゃん!こんにちは!ママ、行ってきます!」
「行ってらっしゃい。諒ちゃん、よろしくね。何かあったらすぐに戻ってくるのよ」
「ハイ。じゃ、行ってきます」
こうして僕たちはおばさんに見送られながら、道路を挟んですぐ目の前にある公園へと足を向けた。
僕には二人を安全に遊ばせるという使命があった。そのため、自分が楽しむ余裕はあまりなかったが、特に嫌だとは感じなかった。だって、二人が無邪気に遊ぶ姿を見るのは楽しかったから。
二人ははじめブランコに乗っていたが、今度は滑り台で遊びたいと言い出した。
それぞれがブランコから下りて、滑り台に向かおうとした時だ。一体何につまずいたのか、瑞月がいきなり前のめりに転んでしまったのだ。
僕は慌てて瑞月の傍に駆け寄った。
「瑞月っ!大丈夫か!」
「痛いよぉ……」
地面からもぞもぞと起き上がりながら、瑞月は泣き声を上げた。
僕は瑞月の手を引っ張って立ち上がらせてから、洋服についた砂やら草を払ってやった。ハーフパンツから出ている両膝にも砂がくっついていて、その片方には血がにじんでいるように見えた。
「とりあえず、あそこのベンチに行こう。栞もこっちにおいで」
「う、うんっ」
僕はふにゃっと泣きべそをかいている瑞月の手と、びっくりして表情を硬くしている妹の手を引いて、最も近くのベンチに向かった。
瑞月をそこに座らせて、僕はポケットからハンカチを取り出した。それを使って、そっと瑞月の両膝の砂を軽く払う。
「よし、あとは軽く水で洗い流して、と」
瑞月はまだ鼻をぐずぐずいわせていた。
大丈夫だからと声をかけながら瑞月を水場に連れていき、靴と靴下を脱がせた。
「ちょっとしみるかもだけど、ここで、砂を洗い流すからな」
素直にこくりと頷く瑞月を自分の肩に捕まらせて、膝についた砂や汚れを洗い流す。
「これでいいかな」
栞が持っていたハンカチも使って、瑞月の濡れた脚を拭いてから、再び靴下と靴を履かせてやる。
「少し擦りむいたみたいだけど、家に帰って消毒すれば大丈夫だと思うよ」
言いながら見上げた瑞月の顔からは涙が消えていた。代わりに、ぱちぱちと瞬きを繰り返しながら、瑞月は僕をじっと見ている。
瑞月の頭上に木漏れ日が揺れた。眩しさに細めた目に、瑞月がきらきらとして映り、僕は戸惑ってしまう。
「な、何?」
「諒ちゃん、すごいねぇ。お医者さんみたい」
「べ、別に、これくらい、たいしたことないよ」
瑞月から尊敬のまなざしを向けられて僕は照れた。
隣で栞がなぜか得意げに言う。
「お兄ちゃんはね、将来お父さんのあとを継いでお医者さんになるんだよね。だから、これくらいのこと、できてアタリマエなの」
まるで兄自慢のようにも聞こえる妹のセリフに恥ずかしくなって、僕は瑞月から目を逸らした。
「まだ分かんないよ、そんな先のこと」
「でも、もしも本当に諒ちゃんがお医者さんになったら、わたし、嬉しいなぁ」
「え?」
僕は瑞月をまじまじと見た。
瑞月はにこにこ笑いながら僕を見上げている。
栞はうんうんと納得したような顔で頷いて言った。
「お医者さんが知ってる人だったら、すっごくいいよね」
「そうそう。諒ちゃんが診てくれるってなったら、絶対安心だよね」
妹と幼馴染は、僕の将来について、そんな軽口でお喋りし合う。
僕は苦笑しながら二人の様子を眺めていた。
瑞月の言葉には深い意味なんてないはずなのに、その一言はひどく印象深く聞こえて、僕の心の中でいつまでもくるくると回っていた。
*
*
*
後になって振り返ると、瑞月のその時のひと言が、俺に医者という仕事を改めて意識させるきっかけになったと思う。そして、明確に医者を志すことを決めたのはそれから数年後、中学生になってからのことだった。
今俺は、医者になって本当に良かったと思っている。なぜならこうやって、瑞月の怪我を診てやれるんだから。
診察が終わって、俺は瑞月に微笑みかけ、しかし、仕事用の口調で伝える。
「今日で通院は終わりということで大丈夫でしょう」
今回の転落で瑞月は怪我を負ってしまったが、大事に至らなくて良かったと心の底から思う。
「久保田先生、ありがとうございました」
瑞月はほっとしたように表情を緩め、俺に頭を下げた。
俺をよく知る恋人から「先生」と呼ばれるのは、どうも慣れない。やっぱり今回も、むず痒い気分でパソコンにデータを打ち込む。その後、診察券や受診内容のチェック表を入れたクリアファイルを彼女に手渡し、小声でそっと告げる。
「今夜行くからな」
瑞月は嬉しそうに微笑む。
「待ってるね」
彼女もやっぱり声を潜めて答え、いそいそと診察室を出て行った。
彼女の後ろ姿を見送ってから深呼吸を一つして、俺は次の診察内容のデータを開く。瑞月が晩飯を作って待っていてくれるはずだからと、俺は自分を鼓舞する。
「斉藤さん、斉藤泰さん、四番にお入りください」
次の患者の名を呼ぶ俺の声は、もしかしたら、いつも以上に明るく聞こえたかもしれない。
(了)
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