その日仕事を終えた杏樹は駅へ向かっていた。
今日は正輝と莉乃が二人でいる所を目撃したというのにそれほど落ち込んではいなかった。
それはおそらく優弥が正輝を注意しているのを見たからだろう。優弥がはっきりと注意してくれたので杏樹はかなりスッキリしていた。
前副支店長の前田は同じ大学の後輩である正輝に対し少し甘いところがあった。しかし今後は今までのようにはいかないだろう。そう思と杏樹は思わず晴れ晴れとした気分になる。
すっかり気分が良くなった杏樹は折角だからとウィンドーショッピングをして帰る事にした。
駅ビルに入り上の階まで上がると早速端の店から見て回る。
杏樹はこの先ずっと大切に出来るような少しいい物を買いたいと思っていた。
(そう言えば正輝に振られてからはウィンドーショッピングもしていなかったわ)
かなり久しぶりのショッピングなので杏樹はワクワクしてくる。
インテリアの店、キッチン雑貨の店、お洒落な雑貨が置いてある店をいくつか覗いて見る。
しかし「これだ!」といった物は見つからない。
(意外とビビッとくるものがないなー)
そう思いながら一番奥の店へ行く。その店は絵画やアート作品を売っている店だった。
(リビングのだだっ広い真っ白な壁が殺風景だったなぁ。あそこに絵を飾るのもいいかもしれないわね)
そう思った杏樹は店の中に足を踏み入れた。
「いらっしゃいませ、どうぞごゆっくりご覧下さいませ」
女性スタッフが笑顔で声をかける。
杏樹はスタッフにペコリとお辞儀をしてから店内に飾られている絵画を見て歩いた。
(うわー素敵な絵がいっぱい……若手アーティストの物なのかなぁ? お値段は割とリーズナブルみたい)
そこに飾られている絵の価格は杏樹にも手の届くものだった。
ヨーロッパの街角、人物画、猫や花をモチーフにしたもの、抽象的なデザイン画……様々な種類がある。
一つ一つゆっくり見て歩く杏樹の足が突然止まった。
(海……と、シーグラス?)
その絵は海を描いたものだった。見た事のない美しい色の海と波打ち際が描かれている。
そして白い砂浜の上にはシーグラスが一つ落ちていた。シーグラスはエメラルドグリーン色に輝いている。
(すごく綺麗……)
その絵画に見とれている杏樹に向かってスタッフが言った。
「その絵は湘南在住の絵本作家の方が描いたものなんですよ。夏樹詩帆(なつきしほ)さんという絵本業界では大人気の方で、最近こういった絵画やイラストのお仕事も始めたようで…特に若い女性やサーファーの方には大人気なんです」
「そうなんですね……この海の色は? エメラルドグリーンとも違うみたいだし何ていう色なんだろう?」
「絵画のタイトルにもあるようにその海の色はセルリアンブルーという色だそうです」
杏樹が絵画のタイトルを見ると『セルリアンブルーの夜明け』と書かれていた。
「セルリアンブルー……」
杏樹は初めて聞くその色の名に興味を持つ。
「綺麗な色……あと浜辺に貝殻っていうのはよく見るけれどシーグラスっていうのが珍しいですよね」
「私もこの絵を見た時そう思いました。でも私も海に行くとついシーグラスを探してしまうのでなんか画家の方と感性が一緒なのかなーってちょっと嬉しくなりました」
「本当ですか? 私もです! 貝殻よりもシーグラス派……」
そこで二人は目を見合わせて同時に笑う。
杏樹がそれとなく値段を見ると小さいサイズの物は25000円、大きい方は38000円だった。
(うーん…最近は生活必需品以外は何も買ってないしこの前のボーナスもほとんど手をつけていないから…..まあいいか)
杏樹は引越しの記念に一目惚れしたその絵画を買うことにした。
「じゃあこの大きいサイズの方をお願いします」
「ありがとうございます。実はコレ昨日入荷したばかりなんです。彼女の絵は入るとすぐに売れてしまうので来週にはもうなくなっていたと思いますよ。だからラッキーでしたね」
「そんなに人気なのですか?」
「はい、絵本のファンの方が購入される事が多いんです。それにお値段も割と控えめなので人気みたいですね」
「へぇ……じゃあタイミング良かったのかな?」
「そうだと思いますよ」
女性は壁から絵画を取り外すと乾いた布で丁寧に拭いてから箱に入れる。そして紐を巻き付けて持ち手を取り付けてくれた。
「少し重いですけれど大丈夫ですか?」
「はい。家はここから数駅なので」
会計を済ませた杏樹は笑顔で店を後にした。
運命の出会いと言えるほど杏樹はその絵画がとても気に入った。
良い買い物が出来た嬉しさで思わず顔が綻ぶ。しかし思っていた以上に絵画は重い。
(結構重いわ……帰宅ラッシュの電車にこれを持って乗れるかなぁ?)
若干不安に思いつつ杏樹は改札を抜けてから階段を下りてホームへ向かった。
ホームには沢山の人が溢れている。
大きな箱を抱えた杏樹は少し不安になる。
(郵送にしてもらえば良かったかなー)
しかし今更後悔しても遅いので、とにかくホームの端の空いた場所へ向かおうと歩き始めた。
その時反対側の電車へ駈け込もうとしていた男性が杏樹の持っていた箱に派手にぶつかる。その勢いで杏樹が跳ね返され大きくよろめいた。そしてそのままバランスを崩し倒れそうになる。
(落としたら割れちゃう……)
杏樹は絵を守ろうと身体全体で必死に箱を抱え込む。しかしそれにより一層バランスが崩れ身体が倒れていった。
(もう駄目っ)
杏樹が覚悟を決めて目を瞑った瞬間突然身体がふわりと浮いた。
倒れるのを覚悟していた杏樹は何も起こらなかったので拍子抜けする。
その時聞き覚えのある声が耳に響いた。
「大丈夫か?」
杏樹が目を開けるとそこには心配そうな顔をした優弥がいた。
杏樹が倒れるのを防いでくれたのは優弥の逞しい腕だったのだ。
「ふ、副支店長!」
「何でそんなに大きな物を持ってラッシュの電車に乗ろうとしてるんだ?」
「す、すみませんっ、こんなに混んでいるとは思わなくて」
「とりあえず俺が持つから」
優弥は杏樹の手から絵画を奪う。その途端しびれていた杏樹の手が楽になった。
「とりあえず戻るぞ」
優弥はもう片方の手で杏樹の手首を掴むと今降りて来た階段を上がり始める。
「副支店長っ、ど、どこへ?」
「タクシーにしよう。これを持って満員電車に乗ったらヒンシュクだぞ」
「だ、大丈夫ですっ、一台やり過ごして次のに乗りますから」
「いや、タクシーの方が安全だ」
優弥は聞く耳を持たずにズンズンと歩いて行く。杏樹は抵抗できずに引っ張られるような形で優弥について行った。
その時少し離れた所に正輝の姿があった。正輝は二人を見て驚いた顔をしている。
しかし二人の姿が遠ざかって行ったので慌てて二人の後をこっそりとついていった。
地上に出た二人は大通り沿いまで行くと優弥がタクシーを拾い二人一緒に乗り込んだ。
タクシーは呆然と立ち尽くす正輝の前を走り去って行った。
(一体どういう事なんだ?)
正輝は驚いたままただその場に立ち尽くしていた。
コメント
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正樹に見られた😨今カノのことだけ考えてそっとしておいて
詩帆ちゃん登場嬉しい💞
うわー、正輝さんに見られたのはなんか最悪だぁー。 叱られた腹いせによからぬ噂とか流さないでよ!?