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九月に入った朝、霧守町の空気は夏の名残を薄く残しながらも、坂道の影だけを先に冷やしていた。花屋「花は散らない」の店先には、白いトルコキキョウと薄桃のケイトウが並び、前の週より秋の匂いが濃くなっている。
ハヤは仕入れ伝票を帳場へ重ねながら、昨日の売上を頭の中でなぞっていた。一輪包みは相変わらず単価が低い。だが、その一輪を買った人が、次の日に別の注文を持って戻ってくる。数字はまだ細い。それでも、前よりは確かに、店へ戻る足音が増えていた。
午前十時すぎ、通りの上から、場違いなほど磨かれた車がゆっくり下りてきた。
「なんか来た」
花を並べていたエフチキアが、小声で言う。
車から降りたのは、紺色のスーツを寸分違わず着こなした女だった。細いヒールが石畳を鳴らし、薄い灰色のファイルを抱えてまっすぐ店へ向かってくる。
「白群リゾート、地域連携部の久世です」
名刺を差し出す手元まで、無駄がなかった。
「本日は、朝風通りの個別訪問で伺いました」
ノイシュタットが一瞬で前へ出る。
「ようこそ。こちらは花と菓子と噂話で立っている店ですが、本日はどの要件でしょう」
「再開発のご説明です」
久世は微笑みを崩さなかった。
その言葉だけで、店の中の温度が少し下がる。
奥からオブラスが出てきて、さりげなくカウンター脇に立つ。アンネロスも焼き菓子の紙袋を持ったまま顔を出した。誰も追い返しはしない。ただ、花の間を抜ける風みたいに、警戒だけが広がる。
久世はファイルを開いた。
中には、朝風通りをきれいに描き直した完成予想図が並んでいた。石畳は残り、木の看板も残り、軒先には花が吊られている。見た目だけなら、今より整って、今より上等に見える。
「既存店舗の魅力を生かしながら、統一感のある宿泊回遊施設へ転換します」
「へえ」
ノイシュタットが相槌だけを返す。
「その際、人気のある屋号や意匠は可能な範囲で継承します。こちらの花屋さんも、店名を残したまま入居可能です」
ハヤの指先が、伝票の端で止まった。
「……店名を残したまま」
「はい。“花は散らない”という名称は、情緒があり、観光客への訴求力も高い。制服も雰囲気に合わせて残せます。花の監修などは本部が入り、仕入れは一括化されますので、ご負担も減ります」
ご負担も減ります。
その言い方はやわらかかった。やわらかいのに、どこか冷たい。花の水を替える手間も、値段を決める迷いも、誰にどの花を勧めるかという迷いも、全部きれいに片づけてくれそうな声だった。
エフチキアが空気を読まずに言う。
「じゃあ、誰が花を選ぶんですか」
「本部が季節ごとの基準を設けます」
「じゃあ、怒ってる人に白を多めにするとか、退院の人に香りのやさしいのを混ぜるとか、そういうのは」
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「個別対応は一定の範囲で」
一定の範囲。
ハヤはその四文字を、胸の中で転がした。一定の範囲なら楽だ。迷わなくて済む。覚えなくても済む。名前を呼ばれなくても、制服を着て、本部の指示通り花を出していれば、店は一応続くのかもしれない。
久世は、ハヤの顔をまっすぐ見た。
「店名も制服も残ります。ご本人のご負担は減り、収益は安定し、将来設計も立てやすくなります」
将来設計。
その響きはまともだった。まともすぎて、反論しづらい。
ノイシュタットが口を開く前に、ハヤのほうが先に言葉を出した。
「……資料、預かります」
店の空気が、ぴたりと止まった。
久世は満足そうに一礼した。
「ご検討ください。期限は今月末です」
薄いファイルがカウンターへ置かれる。置かれた音まで、ひどく軽かった。
久世が帰ったあとも、誰もしばらく口を開かなかった。
最初に動いたのはアンネロスだった。焼き菓子の包みをカウンターへ置き、ハヤの前に小さく滑らせる。
「食べなさい。甘い物が足りない顔してる」
「ありがとうございます」
「礼はいい。で、今の返事、本気?」
ハヤはファイルを見た。整いすぎた完成予想図の中で、花屋の看板だけが今の店名を借りていた。
「……分からないです」
それが、いちばん本当の答えだった。