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真柄蒼司の名前を追い始めたころから、朝風通りでは別の古い話もまた浮かび上がってきた。
今度はノイシュタットの話だった。
きっかけは、通りの端にある乾物屋のおじさんが、昼の立ち話でうっかり口を滑らせたことらしい。
「あいつ、東京で派手にやらかして帰ってきたんだろ」
その一言は、風邪の噂より早く広がった。
もちろん、町の人間はもともと何となく知っていた。けれど「何となく」と「誰かが口にした」は別物である。そこから尾ひれがつき、広告の仕事で大損を出しただの、有名人を怒らせただの、会場を一つ潰しただの、勝手な話が増えていった。
昼過ぎ、花屋の前に立ったノイシュタットは、いつも通りの顔で一輪包みを並べていた。けれど、通り過ぎる人の視線がほんの少し長い。気づかないはずがないのに、彼は何も言わない。
エフチキアが小声で言う。
「気にしてないのかな」
ハヤは首を振った。
「気づいてはいます」
「じゃあ、平気?」
「……平気なふりは、得意そうです」
その日の夕方、祭りの準備の打ち合わせに来たドゥシャンが、悪気なく地雷を踏んだ。
「でもさ、東京でそんな大失敗したのに、よく戻って来られたよな。俺だったら三年は山に隠れる」
場が止まる。
エフチキアが目を見開き、ハルミネが布を落としかける。アンネロスはため息をつき、ジョンナは本を閉じた。
ノイシュタットは一拍だけ沈黙し、それから笑った。
「僕は恥の耐久力だけは妙に高いからね」
「褒めてないです」
ハヤがすぐ返す。
「分かってる」
「なら、笑わなくていいです」
その言い方が少しきつくなったのを、自分でも分かった。
ノイシュタットは花の茎を切りそろえながら、軽く肩をすくめた。
「笑っておくと、他人が安心するんだよ。気まずくさせずに済む」
「自分は?」
ハヤが訊くと、彼の手がほんの少しだけ止まった。
しばらくしてから、ノイシュタットは手元を見たまま言った。
「自分は、後回しになる」
店の奥が静かになった。
アンネロスがドゥシャンを外へ連れ出し、エフチキアも気を利かせて倉庫へ下がる。気づけば店先にはハヤとノイシュタットだけが残っていた。夕方の光がガラス越しに傾き、花桶の水面を鈍く光らせる。
「何を失敗したんですか」
ハヤは、責める声にならないよう注意して訊いた。
ノイシュタットは笑わなかった。
「大きな商業施設の宣伝を任された。見栄えが良くて、話題になって、数字も取れる企画をいくつも積んだ」
「それで」
「そこで働く人の顔が見えなくなった」
彼はそう言って、切り終えた茎をまとめる。
「店の人が何を大事にしてるか、誰が何に疲れてるか、そういう泥の部分を、僕は“整えるべきノイズ”として扱った」
ハヤは黙って聞いた。
「結果、数字は一時的に跳ねた。でも現場は荒れて、残るはずの人が辞めた。企画だけがきれいに立って、人が残らなかった」
その言い方には、自分で何度も噛みしめた傷の感じがあった。
「……最低ですね」
ハヤが言うと、ノイシュタットは口元をわずかにゆるめた。
「うん。かなり」
「笑うところじゃないです」
「今のは笑ってない。救われただけ」
ハヤは花を包む手を止めた。町の噂なら、もっと派手な失敗が語られるだろう。けれど本人の口から出たのは、人を置いて企画だけをきれいにしてしまった話だった。
それがこの男にとって、いちばん痛い失敗なのだと分かった。
「だから、今度は違う形でやりたいんですか」
「たぶんね」
「たぶん」
「断言すると、また気取って聞こえるだろう?」
「もう十分気取ってます」
ようやくハヤが少し笑うと、ノイシュタットもわずかに息を抜いた。
店の前を、買い物帰りの女性二人が通り過ぎた。こちらを見て、何か話しながら笑っている。たぶん噂の続きだろう。それでも、ハヤはもうさっきまでほど腹が立たなかった。
噂話に乗る軽さと、失敗を引き受けた人間の重さは、同じではない。
閉店後、帳場で伝票を整理していると、ノイシュタットが不意に言った。
「君だけが笑わなかった」
ハヤは手を止める。
「笑うところじゃなかったからです」
「それでも、大抵は笑うふりをする」
「私は愛想がいいほうじゃないので」
「知ってる。でも、ありがたかった」
その言葉に、ハヤは返事をしなかった。
ただ、窓の外がすっかり暗くなってからも、その一言だけが店の奥にしばらく残っていた。