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八月の朝、花屋「花は散らない」の前には、一輪包みを買っていく人が前より増えていた。派手な花束ではない。売れ残りを工夫して整えた、小さな包みだ。けれど、石畳の坂を上っていく人の手にそれが揺れていると、通りの空気まで少しやわらかく見える。
ハヤは開店前の帳場で、前日の伝票を並べていた。数としては、そこまで大きくない。忙しかった気はするのに、紙の上では驚くほど地味だった。
向かいでオブラスが珠算用の古い電卓を叩く。
「一輪包みだけ見れば、利益は薄いです」
言い方はいつも通り淡々としている。
「……やっぱり」
ハヤが肩を落とすと、オブラスは紙を一枚ずらした。
「ですが、そこで話は終わりません」
彼が見せたのは、一輪包みを買った客のその後の来店記録だった。三日後に供花を頼んだ人。翌週に誕生日の花束を予約した人。焼き菓子店にも寄っていった家族。小さな紙の列が、別の紙につながっている。
「入口として機能しています」
「入口」
「ええ。最初の買い物が小さくても、店に入る理由になる。顔を覚える理由にもなる」
オブラスは表を指でたどる。
「利益だけを見ると弱い。でも、来店頻度と追加注文を含めると、無視できません」
ハヤは数字の並びを見つめた。たしかに、一輪包みそのものは店を救う額ではない。けれど、その先で別の注文が生まれている。祖母に渡す花、仲直りの花、見舞いの帰りの花。花屋に足を向けるきっかけになっている。
そこへエフチキアが裏口から顔を出した。
「ハヤさん、昨日の男の子のお母さんが来てるよ。今度はおじいちゃんにあげる花が欲しいって」
その声に、ハヤは思わずオブラスを見る。
オブラスは表情を変えないまま、ほんの少しだけ顎を引いた。
「数字はあとから理由を言います。先に動くのは、たいてい人のほうです」
店先に出ると、小学生の男の子とその母親が立っていた。男の子は昨日と同じように、背伸びをして花桶をのぞき込んでいる。
「今日は黄色いのがいい」
「どうして?」
ハヤがしゃがんで訊くと、男の子は真面目な顔で言った。
「昨日、おばあちゃん泣いたけど、今日は笑ってたから」
その答えに、胸の奥が静かにあたたまった。
ハヤは小さな黄色いガーベラを一本選び、葉の向きを整え、包み紙を結ぶ。高いものではない。でも、渡す相手の顔が見えている花だった。
会計を終えたあと、オブラスが店先へ出てきた。
「どうです」
「……薄い利益だけ見て、早く判断しなくてよかったです」
「早い判断は、だいたい雑です」
「厳しいですね」
「数字は甘くないので」
そう言いながらも、彼は店の前を歩いていく男の子の背中を目で追った。
その背中の先に、見えにくいけれど、たしかに店の未来へつながる細い道がある気がした。