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七日前の離宮は、王宮本館とは違う静けさを持っていた。水を張った中庭に白い雲が映り、回廊の先では鳥籠のような形の温室が光っている。候補者記録を納めた名簿庫もこの離宮の一角にあり、特別推薦名簿の真偽を確かめるには、そこへ入る必要があった。
だが入口の書記官は、アーダとヴォロジャを見比べてきっぱりと言った。
「最新肖像がなければ、本人確認はできません」
「いまからですか?」
「いまからです」
問答の余地はなかった。呼ばれたのは、宮廷絵師見習いアンフリーデ。青い絵具のついた指をひらひら振って現れた彼女は、二人を見るなり堂々と胸を張った。
「任せてください。落ち着いた気品、ほのかな親密さ、将来の幸福まで、一枚に閉じ込めてみせます」
一時間後、できあがった絵を見て、部屋の全員が沈黙した。
「……私、こんなに不幸そうな顔をしていますか」
アーダが恐る恐る尋ねると、アンフリーデは首をかしげる。
「憂いです」
「俺は今にも遺言を読むみたいだが」
「覚悟です」
背景の薄曇りの空も、斜めに差す光も、なぜか葬送画のような仕上がりである。しかも二人の距離は近いのに、恋人らしい甘さより、戦場へ向かう直前の別れに見えた。
ヴォロジャは口元を押さえて耐えていたが、とうとう肩を揺らした。アーダも堪えきれず、小さく吹き出す。アンフリーデは不服そうだったが、彼女なりに真剣に描いたことは伝わってきたので、誰も強くは言えなかった。
「ただ」
アーダは絵を覗き込み、ふと目を止めた。
「この背景の紋章……王家の現行紋ではありません」
「え?」
「旧婚礼局の紋章に近いです。ここ、羽根の向きが逆になっている」
アンフリーデは目をぱちぱちさせ、それから慌てて絵筆箱を探った。
「昨日、急ぎだって言われて見本を渡されたんです。王女からの言づてだって」
「誰が渡した?」
ヴォロジャが問う。
「顔までは……帽子を深くかぶっていて。白い封蝋のついた包みでした」
白い封蝋。アーダは第3話で見つけた紙片の端を思い出した。王女シグリドの私印に似た跡。ここでも白蝋が出てくる。
名簿庫にはその肖像でどうにか入れたが、確かめられたのは、特別推薦名簿の原本が確かに存在し、しかもアーダの名だけが後から追記されていたという事実だけだった。筆跡は整えられていて、すぐには誰のものとも断定できない。
離宮を出る頃には、夕方の光が回廊を黄金色に染めていた。アンフリーデは自分の絵を抱えたまま肩を落としている。
「私は、役に立ったんでしょうか」
「立った」
ヴォロジャは即答した。
「少なくとも、古い見本が使われたことがわかった。それに」
「それに?」
「笑っただろう。ここ数日、アーダは顔をこわばらせてばかりだった」
急に名前を出され、アーダは足を止めた。ヴォロジャはアンフリーデに向けて言ったのに、その言葉は彼女の胸にもやわらかく落ちてくる。落ち込んでいた絵師見習いは、ようやく少しだけ口元をゆるめた。
帰り道、アーダは何度もさっきの言葉を思い返した。顔をこわばらせていたことに、彼は気づいていたのだ。誰かの小さな変化をちゃんと見ている。その優しさに、胸の奥が頼りなくふわふわした。
夜、部屋へ戻ると、机の上に小さな紙片が置かれていた。
次は舞踏会で確かめなさい。
それだけしか書かれていない。だが封の端には、薄くこすれた白蝋が残っていた。
アーダは指先でそれをなぞり、深く息を吸う。舞踏会。そこに、この名簿改変の理由がある。
扉の外で待っていたヴォロジャへ紙を見せると、彼はひとつ頷いた。
「行くしかないな」
「はい」
「怖いか」
「少し」
「なら、少しだけ俺の後ろにいろ」
何気なく言われたその一言に、アーダの返事が遅れた。鎖が、まるでせかすようにちいさく鳴る。彼の後ろにいたいわけではない。隣にいたいのかもしれない。その考えに、自分で驚いた。