テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
白鴎婚礼祭の六日前。王女シグリドの私室へ通された時、アーダは思っていたよりずっと拍子抜けした。もっと重々しい謁見室を想像していたのに、そこは陽のよく入る仕事部屋で、長机の上には帳面と封蝋見本と舞踏会の座席図が、戦場の地図のように広げられていたからだ。
「来たわね」
シグリドは椅子から立ち上がるなり、挨拶より先に一冊の帳面をアーダへ差し出した。
「勝負よ」
「……勝負ですか」
「過去二十年分の婚姻記録から、改変の痕跡を先に見つけたほうが勝ち。時間は鐘三つ分」
王女の眼差しはまっすぐだった。遊び半分ではなく、本気であることがすぐにわかる。ヴォロジャは壁際へ下がったが、アリツがいつの間にか窓辺に腰かけていて、面白そうに口笛を吹いた。
「勝ったら何があるんです」
アーダが尋ねると、シグリドは唇を持ち上げる。
「あなたが私を問い詰める権利。私が勝てば、あなたは舞踏会に立つ」
「それ、もう決まっていませんか」
「そうとも言うわね」
帳面が開かれた。古い紙の匂いの中、アーダは一頁目から目を走らせる。綴りの揺れ、文字間隔、封蝋の圧、筆圧の迷い。数字は嘘をつく。紙も嘘をつく。だが、嘘をつく時には、つかなくていいはずの小さな力が入る。
二冊目の半ばで、彼女は一か所に指を止めた。
「ここです」
「早いわね」
「同じ書き手なら、訂正の線は右上がりになりません。癖が違う」
「正解」
さらに別の頁でも、封蝋の温度差から、押印の順番が逆転している記録を見つける。シグリドもほぼ同時に別の改変箇所を示したが、最後に多いのは一人の筆跡ではない、と結論づけたのはアーダのほうが先だった。
王女は帳面を閉じ、潔く笑った。
「負け。やっぱり、あなたを名簿へ入れた甲斐があった」
「やはり、あれは王女殿下が」
「そうよ。貴族の娘ばかりが並ぶ舞踏会なんて、制度の内側だけで空気が淀むでしょう。外側から紙を見る目を、一人くらい立たせたかった」
アーダは言葉を失った。理由は理解できる。だが、本人の都合を聞かずに名前を載せるのは乱暴だ。そう言おうとした時、シグリドは先回りするように肩をすくめた。
「独断だとわかっている。怒ってもいい。でも、いまの婚姻制度は窮屈すぎるの。家のため、立場のため、整った言い方のために、肝心の心が後ろへ押しやられる」
「……だから、私に何かを見せろと」
「壊すだけじゃ足りないのよ。誰かが、新しい誓い方を見せなきゃ」
その言葉は重かった。アーダは王女を敵だと思えなくなった。勝ち気で、手段が先に立ちがちで、でも本当に見ているのは人の息苦しさなのだ。
部屋を出たところで、ヴォロジャが低く問う。
「信じるのか」
「全部はまだ。でも、嘘だけではないと思います」
すると回廊の柱の陰から、アリツがひらりと出てきた。
「なら次は彼の番ですね」
「何がだ」
ヴォロジャが眉を寄せる。
「彼女を守る番ですよ。誰にでも同じ顔をして、丸く収めているだけじゃ遅い」
笑っているのに、言葉は妙に鋭かった。ヴォロジャの表情がわずかに固まる。アーダはその横顔を見て、初めて気づいた。彼はどんな相手にも穏やかで、誰に対しても親切だ。けれど、そのやさしさは、誰か一人だけを選ばないための壁でもあるのかもしれない。
廊下を歩き出してからも、二人の間には少しだけぎこちない沈黙が残った。鎖は静かだ。だが静かな分だけ、飲み込まれた言葉がそこに溜まっていくようだった。