テラーノベル
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私は有栖川郁太郎──ここでは、そう呼ぶことにしている。
雪の土地では、名は焚き火に似ている。呼べば一瞬あたたまるが、やがて灰に戻り、指先を汚すこともなく空へ散る。だから雪の深い場所では、人はあまり互いの名を呼ばない。吐いた息が白く形になり、形になったものはすぐに凍って、どこにも届かないからだ。
山荘へ向かう道は、すでに白さをまき散らし始めていた。針葉樹の列は雪を受け止め、枝先が重みで軋むたび、きらきらと細い氷をこぼす。あれは雪というより、木々が寒さを吸い込みきれず吐き戻した呼気の破片だ。足元はまだ浅く、踏みしめると低くきしむ。雪のきしみは音というより、圧縮された空気の悲鳴に近い。悲鳴は、すぐに白に吸われる。
山荘は二階建てで、外壁は古びた木、窓枠は白く塗られていた。だがその白は雪の白とは違った。刷毛目の残る、人の手の白。扉を押すと、灯油の匂いが押し寄せる。暖炉の乾いた熱ではない、均質でやわらかい暖かさ。皮膚を包むが、骨には届かない。骨に届かない熱は、安心を与えるふりだけが上手い。
滞在者は、私を含め六人。
古い赤いセーターを着た女。縫い目の緩いニット帽を被った若い男。眼鏡の奥の目に疲れがこびりついた中年。黒い指抜き手袋の女。口数の少ない老人。そして私。
顔ぶれはありふれているが、私はその表情の動き方を、挨拶の前から知っていた。笑いに移るまでの頬の時間差。瞬きをためる癖。寒さをやり過ごすための肩の揺らぎ。そういうものは、偶然に見えなくなるほど、よく覚えてしまっていた。
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一日目
雪は午後から降り始め、夕方には窓の半分を覆った。外は白い膜に包まれ、遠くの森も近くの斜面も、同じ距離にあるように見える。白は距離を壊し、壊れた距離は時間を無意味にする。台所で誰かが鍋を叩き、湯の泡が蓋を小さく震わせる音がした。人工の音は、雪に弱い。すぐに鈍くなる。
暖炉の火が弱くなったとき、奥の部屋から声がした。
凍っているのに湿っている、矛盾のような声。言葉になりきれない破片が、空気の中で一度だけ形になったあと、すぐ崩れる。耳の奥に氷のささくれを押し込まれたような痛み。誰も何も言わない。言葉で包めば壊れる音がある。壊れた音は、二度と元には戻らない。
夜半、廊下を歩く音がした。
雪靴ではない。軽く擦るような室内履きの音。階段を二段降りたところで消えた。残りの段は、耳に届かない。届かないという事実のほうが、音そのものよりずっと大きい。
私は寝床で、指を一本ずつ握っては開いた。指の関節が、冷えを飲み込んで小さく鳴る。眠りは来なかった。眠らない夜は、時間の端がほつれる。ほつれた糸は、白に似ている。どこから切れているのか、見えない。
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二日目
朝、ひとりが消えていた。
赤いセーターの女の部屋。寝具は整い、荷物はそのまま。窓は内側から鍵がかかっている。外は一晩でさらに積もり、平らさが増していた。足跡はない。雪は、記憶を均すのが得意だ。均された記憶は、真実の輪郭を奪う。
残った五人は、朝食の席で互いに顔を見た。
「きっと散歩だ」と誰かが言った。
「雪の前に戻るだろう」と誰かが答えた。
言葉はどれも、足場のようだった。ぬかるみに足を取られないための仮の板。だが板は湿っている。湿った板は、踏めば滑る。誰も最初の一歩を置こうとしなかった。
昼過ぎ、また声がした。前日よりも近い。
台所の隅で、誰かがガラス瓶を素手で触っている音に混じって、凍れる気配がのぞく。私は耳を傾けるふりをして、聞かないことにした。聞かないという選択は、聞こえたという事実の上にしか成り立たない。
夕刻、窓の外に影が立った。
人の形に見えたが、白の中に溶け、すぐに輪郭を失った。私は窓に触れ、氷の薄い膜を爪先でこそいだ。ガラスの向こうで、雪は降り続いている。降る音はしない。音は屋根にだけ落ち、壁にだけ残る。
夜、ふたつ目の寝床が空になった。
眼鏡の中年の部屋。枕元のグラスの表面に薄い氷。氷には、網目状のひびが入っていた。吐息が凍り、割れたまま戻れない図形。私はそのひびに指をあて、冷たさの下に柔らかさを探した。柔らかさは、そこにあった。だが名前はなかった。
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三日目
四人になった。
食卓に四つの椅子。スプーンの触れる音が、妙に心細い。灯油のストーブは律儀にうなりを続けるが、うなる音自体に疲れが出始める。雪は窓の三分の二を覆い、外光は乳白色のゼラチンのように室内に沈む。時間は流れず、溜まる。
午後、私は音の目録を作った。
暖房の唸り──低。
鍋の泡──高。
階段のきしみ──不定。
窓に触れる枝──周期的。
そして、奥の部屋の声──温度。
温度という言葉でしか書けない音がある。あれは、意味になる前に体温に触れる。
夜、また声がした。
三度目という事実が、二度目より重く、初回より静かだ。
黒い手袋の女が耳を塞いだ。若い男が笑い声を作った。老人は黙って火に薪を足そうとし、失敗し、肩を落とした。私は廊下に立ち、霜を踏んだ。霜は粉になって砕ける。砕ける音は、雪のきしみと違い、乾いている。乾いた音は、冷たさの中でよく鳴る。
深夜、三人目が消えた。
若い男の部屋。窓の外に雪の壁。扉の鍵は内側から。床には薄い水滴が点々と残り、すぐに凍った。点と点の間隔は、歩幅に似ていた。似ているだけで、同じではない。似ていることのほうが、いつも怖い。
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四日目
三人になった。
朝、灯油の匂いが濃くなる。空気が乾き、喉がざらつく。パンは硬く、湯は早く冷める。私はコップの内側の曇りに指で線を描いた。線はすぐに消えた。消える線しか書けない日がある。
昼前、老人が私に言った。
「昨夜、名前を呼ばれた気がする」
どの名前かは言わなかった。言えば凍る。凍った名前は、もう本人を温めない。私は頷いた。頷くという動作だけが、この場所でまだ役に立った。
午後、私は山荘の内部を歩いた。
廊下の長さを数え、階段の段数を数え、窓の幅を数え、扉の蝶番の音を数えた。数える行為は、恐怖を折り畳んで引き出しにしまう作業に似ている。折り目は増え、紙は厚くなる。厚くなった紙は、やがて折れなくなる。
夕刻、黒い手袋の女が消えた。
彼女の手袋だけが、暖炉の脇の肘掛けにあった。片方は掌を上に、片方は掌を下に向けて。あの裏表の差だけが、部屋の温度を分けていた。手袋は乾いたまま、冷たかった。冷たい乾きは、雪の外側にしかない。
夜、声は聞こえなかった。
聞こえないという事実の重さで、天井が低く感じられた。低い天井は、思考に頭をぶつけさせる。ぶつかったところだけ痛む。
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五日目
二人になった。
朝から風が出た。風は雪よりも厄介だ。雪は降るだけだが、風は積もったものの形を変える。窓の外に波のような起伏が現れ、音の屈折が増えた。私は水のかわりに氷を舐め、舌の痺れで時間を測った。痺れはゆっくりと戻る。戻り切らない感覚だけが残る。
昼、老人は外を見た。
彼の視線は遠いところに置かれていた。遠いところは、白の中では近くにある。彼は何かを思い出すように頬の筋肉を動かした。動いたことだけが見え、何を思い出したかは見えない。
夕刻、私は眠った。
眠りは浅く、夢は透明だった。夢の中で、私は階段を二段降り、そこで足を止め、振り返った。誰もいなかった。振り返るという行為だけが夢の中心に残った。目を開けると、窓の外の白がわずかに黄ばんでいた。日が沈む黄ばみは、雪の上では病気の色に見える。
夜、老人が消えた。
彼の椅子は暖かかった。座面に残る熱は、そこに体があったことだけを伝え、どう消えたかは教えない。私はその椅子に座った。椅子は私の重さを受け入れ、何も言わなかった。
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六日目
私はひとりになった。
沈黙が厚みを増し、音が遠くなる。遠くなった音は、遅れて届く。遅れて届く音は、意味を外す。朝も夜も同じ白。窓の縁に薄い氷の花が咲き、それがゆっくりと広がっていくのを、私は呼吸の速度と重ねて観察した。呼吸は浅く、数は多く、温度に怯える。
私は音の目録を更新した。
暖房の唸り──規則性が乱れた。
床板の鳴り──位置が移動する。
外の風──声に似る。
声──風に混じる。
混じる、という言葉がこの日だけは正確だった。声は風と区別がつかず、風は声のふりをした。ふりは、ときに真実より忠実だ。
昼、私は名を呼ばれた。
もちろん、有栖川郁太郎ではない。本当の名前だ。
名は空気に乗り、すぐに凍った。凍った名は、耳の奥で砕けた。砕けた破片は、音にならなかった。音にならない破片のほうが、鋭い。
私は玄関の戸を開けた。
外は白しかなかった。境界は消え、道はなく、上と下だけが残った。上は降り続け、下は積み続ける。私は下に足を置き、上から落ちるものを受けた。受けながら、私は考えた。これが事実かどうか。考えること自体が、白に似ている。広がり、境目がなくなり、どこで終わるのか誰にもわからない。
一歩、二歩。
足は沈み、膝まで雪に噛まれ、脛が鈍く冷える。冷えは痛みに移る前に、名前を奪う。感覚から名が落ちていく。指、足、頬、唇。名を失った部位は、ただの白い部分になる。白い部分は、地図には描かれない。
背後で扉が閉じた気がした。
振り返らなかった。振り返るという行為だけが、ここでは危険だ。視線は物を呼ぶ。呼ばれたものは、来る。来たものは、去らない。私は前を見た。前という概念が、白の中では自分の吐く息と同義になる。吐いた息はすぐ凍り、視界に花を咲かせ、花は消える。
私は、声の正体を知らない。
知ろうともしなかった。知ろうとすることは、雪に穴を開ける行為に似ている。開けた穴に落ちるのは、自分だけだ。私は穴を避け、平らな白の上を歩き続けた。平らさは、欺く。欺かれ続けることは、罪に似る。許されるふりをして、許されない。
やがて、私は戻ったのかもしれない。
戻らなかったのかもしれない。
机の上に、薄い紙がある。紙には、指で描いた線がいくつも重なっている。線はすぐに消える。消える線しか書けない夜がある。これは、その夜のひとつだ。
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断章:音の記録
・初夜の声は薄く、二夜目の声は近く、三夜目の声は乾いていた。
・四夜目は沈黙が鳴り、五夜目は風が話し、六夜目は名が砕けた。
・足音は階段の二段目まであった。三段目はいつも消えた。
・窓に触れる枝の周期が乱れたとき、誰かがいなくなった。
・椅子の温度は事実を語らない。
・氷の花は増える。増えたことだけが、真実だ。
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断章:名について
呼ばれることでしか存在できない名がある。
名前を呼ぶ者の口の形でしか持ち得ない名がある。
口の形が凍る土地では、名は長く保たれない。
有栖川郁太郎という名は、ここを通り抜けるための仮の毛布だ。
毛布は温めるが、守らない。守られないところだけが、私だ。
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私はここで筆を置く。
これが事実かどうかは、私にもわからない。
だがひとつだけ確かなことがある。寒さの中で呼ばれた名は、決して忘れられない。
そして、有栖川郁太郎という名は、その名ではない。
最後に、念のためもう一度記す。
この独白は、かつての自分にまつわるものであり、ここに現れる名も場所も人も、現実には存在しない。
ただ、雪が降り、声が凍り、名が砕けるという現象だけは、たしかに起きた。どこかで。誰かの中で。私の中で。
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