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『聞こえた?』
遠くに聞こえていた声が、急に間近でハッキリとした。
俺はスマホを耳に当てて、走り出していた。
『可愛いわね、椿ちゃん。真面目で、不器用で、一生懸命で、おっぱい大きくて』
いい感じの流れだったのに、最後の一言で『ああ、そうだろ』と言えなくなってしまった。
「東京支社に異動って?」
『え? ああ。打診するだけならタダでしょ?』
要するに、嘘。
「ありがとな、麗」
『お礼なら、私のおっぱいで癒されてくれる可愛い男の子がいいなぁ』
「欲求不満かよ!?」
『もう三年以上揉まれてないの!』
コメントが難しいカミングアウトだ。
『もう、さ。金持ちとかセレブとかどうでもいいから、普通に楽しいセックスがしたい!』
そこは、普通に幸せな結婚がしたい、じゃないのだろうか。
『刺激不足で女性ホルモンの分泌が低下すると、更年期が早くなるって雑誌にあったんだけど!』
更年期を遅らせたくてセックスしたいのか?
『彪と椿ちゃんだけラブラブセックス、ずるい!』
「麗、お前酔ってるだろ。店から追い出される前に、黙って食ってろ」
『椿ちゃんに内緒にするから、シよ?』
放っておいたら、店の店員に馬乗りになるんじゃないかと心配になる。
「今は性欲より食欲に集中しろ!」
麗との通話を終了し、通話履歴の名前をタップする。運よく相手が電話に出て、俺は手短に要件を伝え、あとは全力で走った。
*****
息も切れ切れに部屋の玄関ドアを開けると、リビングのドアの前で彪さんが蹲っていた。
過労死!!
私の脳内に太いゴシック体でその文字が浮かんだ。
「彪さん!」
バタバタを靴を脱ぎすて、私は正座の姿勢でスライディングしながら彼の顔を覗き込む。
肩で息をして、汗びっしょり。
私はバッグを漁る。
「きゅ――救急車を!」
「ストップ!」
グッと力強く手首を掴まれ、ハッとした。
「ひ――久々に走……ったから……」
心臓発作――!?
「だ、大丈夫です! 彪さんはまだ、わ、若いですし、回復も……っ、早いです。リハビリとか……頑張れば、普通通り暮らせます」
早く救急車を呼ばなければ。
そう思うのに、思うばかりで彪さんに掴まれた手を振りほどけない。
焦りと恐怖から、涙が滲む。
「た、たとえっ、しょ、障害とか……残ってもっ……、わ、私がお世話しますからっ――」
おばあちゃんの介護をした経験がある。
働きながらは大変だろうけれど、出来ないことなんてない。
ううん。
出来る。
やってみせる!
彪さんの為なら、やれる!!
「――ずっと、一緒にいます。食事のお世話も、お風呂のお世話もします。トイレも、下のお世話もできます!」
「俺に……恩があるから?」
弱々しい彼の声に、肩が震える。
「それもあります。けど――っ、それだけじゃありません。ずっと……、い、一緒に……いたいんです」
「どうして?」
「好き――っ、だから! 麻痺があっても寝たきりでも、ずっと好きです! ずっとそばにいます!! いさせてください!! 結婚してくださいーーーっ!」
早口で言いきると同時に、涙が洪水のように流れだす。
頬は滝のようだ。
私は彪さんの肩を抱き締めた。
彼の身体は熱く汗ばんでいて、苦しそう。
どうして、もっと早く気持ちを伝えなかったのだろう、と後悔の念に駆られる。
これは、罰だ。
彪さんの気持ちを信じられず、自分の気持ちに素直になれなかった私への罰。
私のせいで、彪さんを巻き込んでしまった。
私のせいで彪さんの健康が損なわれてしまったら。私のせいで彪さんの人生を狂わせてしまったら。そう思ったら、悲しくて悔しくて、私は子供のように泣きじゃくっていた。
静かな空間に私の声だけが響く。
リビングへのドアは閉じていて、玄関がそばとあってよく響く。
誰か、私の声で異変を察知してくれるかもしれない。
そうでなくても、荒ぶる感情を押さえられない。
「きゅ――きゅーきゅーしゃーっっっ!!」
「落ち着け、椿!」
いつもの、力強い彪さんの声に、反射的に口を閉じた。
抱きかかえるように掴んでいた彪さんの身体を離す。
「大丈夫だから」
瞬きすればするほど涙で視界が歪み、私は少し乱暴に眼鏡を外し、目を擦った。が、その手を掴まれた。
柔らかな何かで視界を遮られる。
ギュッと目を閉じ、視界が開けるのを待つ。
「心臓発作とかじゃない。早く帰りたくて走ったら、思ったよりツラかったってだけ」
すぐ間近で声がして、恐らくハンカチであろう布の感触が離れた。
ゆっくりと目を開けると、彪さんが困った表情で私を見つめていた。
「カッコ悪いよな」
首を振る。
「カッコ悪いんだよ。椿がちゃんと帰って来てくれるか不安で、めっちゃ走って、息切れしてさ」
首を振る。
素早く、何度も。
「好きな女に振り向いてもらえないもどかしさにイラついて、人目も考えずに声を荒げて、情けないし」
首を振る。
激しく、何度も。
「それでも、好きなんだ」
泣き過ぎて、目がヒリヒリする。
「たまらなく、好きなんだ」
なのに、まだ涙が出る。
「世話なんてしなくていいから、そばにいて欲しい」
まだまだ、涙が出る。
「ずっと、俺のそばにいて欲しい」
抱き寄せられ、強く抱き締められ、益々、私の涙は止まらない。
「愛してるよ、椿」
何も考えられなくなるような甘い囁きに、実際、何も考えずに言葉を発した。
「私も、愛しています」
彼の腰に腕を回し、私も抱き締め返す。
「京谷さんほどのナイスバディではありませんが、彪さんを癒してあげられるように、誠心誠意、一生懸命、親切丁寧にお仕えいたします!」
新年の抱負のような決意表明になってしまったが、私は本気だ。
なにせ、京谷さんが恋敵だ。
頑張らなければ。
「俺も頑張らなきゃな。椿に飽きられないように」と、笑い交じりの彪さんの声に、私は預けていた身体を起こした。
「彪さんに飽きるなんて滅相も――」
その先の言葉は、彪さんの唇によって音もなく飲み込まれてしまった。
触れ合う唇は小さく震えていた。
震えていたのは私か、彪さんか、二人ともなのか、わからない。
わかる前に、離れてしまったから。
彼の両手に肩を掴まれ、三十センチもない距離で見つめ合う。
だから、彪さんの唇が震えていたのも、開いた唇から取り込む酸素が僅かに弾んだのも、瞳が真っ直ぐ私を、私だけを見ているのもわかる。
「――結婚しよう、今すぐ」
大好きな男性の、尊敬してやまない男性の言葉に、じっと聞き入る。
「家族になろう」
ずっと、欲しかった。
だけど、諦めていた。
「か……ぞく……?」
「ああ、家族。教えてくれよ。俺は家族がどんなものか知らないから。椿が求める家族のカタチを作っていこう、二人で」
そう言ってから、彪さんが口角を上げていたずらっ子のように笑う。
「そうだな。まずは、子供は何人欲しいか相談しようか。ベッドの中で」