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白鴎婚礼祭の四日前、二人は王都外れの断崖礼拝堂へ向かった。名簿改変と招待客除外の手がかりを追ううち、昔の婚礼局がそこへ未提出の誓いを保管していたことがわかったからだ。
礼拝堂は海へ突き出した崖の途中に建ち、白い壁は潮風に削られてやわらかな輪郭になっていた。石段の何段かは欠け、下を見れば砕けた波が灰青色に泡立っている。危うい場所なのに、そこでは何人もの町人が縄を渡し、板を運び、声を掛け合いながら補修を進めていた。
「端に乗らないで! その板、見た目より先に気が折れるから!」
真っ先に声を飛ばしていたのは、礼拝堂を守る若い女性ブランウェンだった。自分がいちばん危ない場所へ踏み込みながら、人にはきちんと注意を向ける。ヴォロジャが手を貸そうとすると、彼女は日に焼けた額の汗をぬぐい、からりと笑った。
「助かる。でも半分だけ借りるわ。残り半分は自分でやりたいの」
その言い方が気持ちよく、アーダは少しだけ肩の力が抜けた。誰かと力を合わせることは、誰かに全部預けることではないのだと、ブランウェンの背中が教えているようだった。
地下の保管室には、年代も差出人もばらばらの木箱が、湿った石床の上に列をなしていた。蓋に記された札を読むだけでも胸が詰まる。未提出の誓い、未送達の求婚、家の事情により保留、身分差につき封印。届けられなかった言葉ばかりが、何十年もここに眠っている。
アーダは一通の紙をそっと開いた。
――あなたを選びたい。けれど、選んだあとに失うものを考えると、口が動きません。
たった一行なのに、そこへ至るまでに飲み込まれた息の多さが見える気がした。別の紙には、故郷へ戻る船を選んだ娘の名があり、さらに別の紙には、家の借金を背負って婚約を断った青年の震える署名があった。完璧に言えないから黙る。正しい順番で並べられないから差し出せない。そうして積み重なった沈黙が、箱いっぱいに詰まっている。
「失敗が怖かったのは、私だけじゃないんですね」
アーダのつぶやきに、ヴォロジャはしばらく答えなかった。やがて古びた箱の縁に手を置いたまま、低く言う。
「たぶん皆、怖い」
「あなたも?」
「……ああ。俺も、ずっと」
その短い言葉だけで、彼が何を避けてきたのか少しだけわかった気がした。うまく救えなかった人、選べなかった道、口にしなかった望み。彼の中にも、ここに収められた紙と同じような沈黙が積もっているのだ。
地下室を出ると、海風が一気に頬を打った。補修の手伝いに加わるうち、かもめが低く旋回し、白い羽がひとつアーダの髪へ引っかかった。
「動くな」
ヴォロジャが手を伸ばす。彼の指が髪をかすめたのはほんの一瞬だった。なのに、耳の近くへ触れた熱だけが長く残った。胸の奥で、何かがふわりと持ち上がる。
「取れた」
「……はい」
ブランウェンは二人を見て、何か察したように笑ったが、茶化しはしなかった。その沈黙がありがたかった。
帰り際、保管室の最後の箱から古い婚礼局の訓戒文が見つかった。擦れた文字をアーダが声に出して読む。
――鎖は本音を結ぶ。結ばれた者が心を誤魔化し続ければ、門は開く。
「地獄門のことよ」
ブランウェンが水平線の向こうを見ながら言う。
「海の荒れる夜、あの石門の向こうから叩く音がするの。言えなかった本音が戸を叩いてるみたいにね」
崖道を戻る途中、アーダは何度も自分の髪に触れそうになっては手を引っ込めた。そこに羽はもうない。それでも、触れられた感覚だけが、風のなかで消えずに残っている。
隣を歩くヴォロジャも、いつもより口数が少なかった。鎖は静かなままだ。だが、その静けさの底に、まだ名前のつかない感情がたしかに沈んでいた。