テラーノベル
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前夜祭の二日前の夜、王宮は仮面舞踏会の灯でまるごと発光しているようだった。回廊にはガラスの灯籠が吊られ、大広間の天井からは海鳥を模した銀飾りが幾重にも下がっている。笑い声も楽団の音も華やかなのに、アーダの胸だけは落ち着かなかった。
彼女はシグリドに借りた青灰色のドレスをまとい、鏡の前で長手袋の縁を整えていた。裾には細い銀糸で波の模様が刺され、動くたび水面のように淡く光る。鎖を隠すための手袋は上等で、見た目には何も問題がない。けれど手首の内側には、見えない重みがたしかにあった。
「よく似合うわ」
シグリドが後ろから言う。
「怯えた顔まで綺麗ね」
「褒められている気がしません」
「半分だけ褒めてるの」
大広間へ出ると、ヴォロジャも警備役の正装で立っていた。濃紺の礼装に銀の留め具。普段よりきちんと整えられた姿なのに、彼が視線を向けた瞬間、アーダには鎖の先にいる人だとすぐわかった。人込みのなかでも見失わない。そのこと自体が、もう少し危うい意味を持ち始めている。
ざわめきが広がる。二人が並ぶと釣り合って見える、という声が聞こえた。感心した声も、値踏みする声も、噂を楽しむ声もある。アーダは肩を固くしたが、ヴォロジャがほんの少しだけ立ち位置を近づけた。
「大丈夫か」
「たぶん」
「たぶんでもいい。倒れるなよ」
「それは努力します」
その短いやり取りだけで、少し息がしやすくなる。だが安堵は長く続かなかった。厨房裏の保管庫で、にんにく蜜菓子の封がまたも破られていたのだ。パスコの怒声が廊下へ突き抜ける。
「まただ! つまみ食い禁止令だって言ってるだろうが!」
甘い香りのなかへ、にんにくの鋭い匂いが混じる。アーダはあの匂いを嗅ぐたび、騒動の始まりを思い出す。彼女は広間を抜け、保管庫へ向かった。箱をひとつ持ち上げると、底板の隙間から薄い紙片が現れる。帳面の切れ端だった。
「やっぱり、ここを隠し場所にしている」
「見つけたか」
背後でヴォロジャが声を落とす。二人が紙片を覗き込んだところへ、音楽が切り替わり、踊りの輪が移動してきた。先頭には仮面をつけたアリツがいて、わざと目立つように人の流れをつくっている。笑わせながら場を回し、その実、ヴォロジャの視線をアーダから引き剥がそうとしているのがわかった。
次の瞬間、ヴォロジャがアーダの手を取った。
「来い」
「どこへ」
「静かな場所だ」
人目を避け、二人は人気のない回廊へ出た。灯籠の明かりが壁に揺れ、遠くから舞曲がかすかに届く。夜気はひんやりしているのに、アーダの指先だけが熱い。彼は何かを言うつもりなのだ。ようやく、と思った。
「さっきの紙は後で見る」
ヴォロジャが低く言う。
「まず、お前に――」
そこで彼は止まった。喉元で言葉が絡み、目の前まで来ている本音を、自分で押し戻してしまうのがわかった。アーダは待った。うまく整っていなくてもいいから、本当の言葉だけを聞きたかった。
けれど彼が選んだのは、守り慣れた言い回しだった。
「俺は誰に対しても同じだ」
アーダは一瞬、意味が入ってこなかった。次いで、胸の奥が冷たく沈んだ。自分に向けられたものではないと、先に線を引かれたのだ。
「……そうですか」
それだけ言うので精一杯だった。鎖がこれまででいちばん鋭く鳴る。金属音というより、悲鳴に近い。ヴォロジャの顔色が変わった。
「違う、今のは」
「同じなら、安心ですね。私だけが勘違いしなくて済みますから」
言ってしまってから、自分の声が震えていると気づいた。回廊の外へ出ると、夜風がやけに冷たい。さっきまで灯に照らされていた大広間の明るさが、別の世界のものみたいに遠かった。
うつろい始めた心が、初めてはっきりと傷ついた夜だった。
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