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#海辺の町
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午後、啓介は一人で坂の下の小さな家へ向かった。芽生も一緒に行くと言ったが、今回は首を振った。
「説得じゃないなら、最初は俺が話す」
それだけ言って出てきたものの、家が見えるころには心臓が少し速くなっていた。海の匂いが濃い日だった。前にここへ来た時のぶつかった空気が、まだ戸の前に残っている気がする。
啓介は一度だけ深呼吸して、引き戸を叩いた。
しばらくして、戸が数寸開く。あの女性が立っていた。目の下に薄い影がある。それでも前よりずっと、まっすぐ啓介を見ていた。
「今日は、何しに」
「お願いに来たんじゃありません」
啓介は頭を下げる代わりに、両手を前でそろえて立った。
「俺の母の話を、聞いてほしくて」
女性の眉がかすかに動く。
「離れで、泣いてる人のそばに座ったり、汁物を出したり、髪を結んだりしてたって、最近知りました。俺、ちゃんと知らなかったんです」
返事はない。けれど戸は閉まらなかった。
「子どものころ、母は俺より他人を大事にしてるんじゃないかって、勝手に拗ねてました。でも違った。行き場のない人がいる時だけ、あの離れを開けてたんだって、今になって分かりました」
潮風に声を持っていかれないよう、啓介は言葉をつなぐ。
「その場所に、助けられた人がいたことも知りました」
女性の手が、戸の端でわずかに震えた。
「赤いリボンも見つかりました」
そのひと言で、女性のまぶたがゆっくり下がる。
長い時間を押し返すみたいな沈黙のあと、低い息がこぼれた。
「……まだ、あったの」
「ありました」
啓介は目をそらさなかった。
「母さんが、誰かの髪か手首に結んだものかもしれないって思ってます」
戸の隙間が、ほんの少し広がる。
女性は啓介の顔を見て、ようやくその名前を呼んだ。
「啓介くん」
初対面の人の呼び方じゃなかった。
啓介の背中を、春の風がすっと抜けていった。