あの夜、俺は久し振りにあきらと一緒に飲み会に参加できて嬉しかった。
いつもなら男女に別れて二次会に行くが、その日は陸さんの結婚報告と、さなえが久し振りに参加できたことで話が弾み、一次会の居酒屋に頼み込んで、時間を延長してもらった。
珍しく陸さんが酔って、変なテンションだったことを覚えている。
俺と陸さん、麻衣さんの三人が同じ方向で一緒のタクシーに乗った。俺は帰る振りをしてあきらの家に押しかけるつもりで、買い物をするからと駅前で降りた。
数か月振りにあきらを抱いて、『陸さんの結婚には驚いた』とベッドの上で話した。
「あきらに言ったこと。アレは俺自身の後悔だ」
あきらに言ったこと……?
「『大学時代の友達です、って旦那に龍也を紹介すんのか』ってやつ。俺はそうやって、春奈に麻衣を紹介したからな」
「……紹介してもらったのって、あの夜の後ですよね」
「ああ」
「そんな――」
麻衣さんはどんな気持ちで――。
奥さんを紹介された時も、麻衣さんは笑っていた。『おめでとう』『元気な赤ちゃんを産んでね』と言って。
「麻衣を抱いた時、春奈との結婚をやめると決めた。子供には申し訳ないが、結婚以外の出来ることはしていこうと思った。だけど、目が覚めた時、麻衣はいなかった。一瞬、夢かと思ったくらいだ。あいつ、シた証拠になるごみまで綺麗に持ってったんだ。あの夜、自分が部屋にいた痕跡を消して、全部なかったことにしやがった」
テーブルに肘をついて、前髪をくしゃりと握った陸さんは、その時のことを思い出して眉をひそめている。
この前、陸さんが言った『先に勝手をしたのは、麻衣だ』という言葉の意味がわかった気がした。
陸さんの麻衣さんへの想いは、身体を重ねた夜から止まってしまった。
セックスによって遂げられたわけでもなく、そこから始まったわけでもない。
大好物を口に入れ、味はするのに歯ごたえがない違和感。
そんな感じだろうか。
何が言いたいかと言うと、食べた気がしないのだ。美味いのに食べた気がしない。だから、満たされない。諦められない。
「けどさ、俺は確かに麻衣を抱いたし、その感触は忘れられない。だから、やっぱり結婚はしちゃいけないと思った。なのに――」
「あ――!」
思い出した。
あの翌日。
俺とあきらがまだベッドにいる時、麻衣さんからあきらに電話がかかってきた。
みんなで陸さんへの結婚祝いを買いに行こう、と。それで、陸さん以外のメンバーで打ち合わせて買い物に行った。その時、あきらに言われて陸さんに欲しいものを聞いた。
『麻衣さんがプレゼント選びに気合入ってるんで、俺から聞いたことは忘れてください』
俺は、電話の最後にそう言った。
「俺があんなこと言ったから」
「違う。いや、違わないけど、お前から聞いて思い留まったんだ。あの時、俺が結婚をやめていたら、麻衣は絶対、自分を責めただろ。それはそれで、俺と麻衣の関係は終わってたと思う。俺が後悔してるのは、それ以前のことだ。春奈を妊娠させたこと。結婚って形で責任を取ろうとしたこと。麻衣を抱く前に、好きだと伝えなかったこと。ま、とにかく全部だな」
そう言うと、陸さんは焼き鳥を口に運び、噛んで、ビールを流し込んだ。
俺はシーザーサラダを皿に分け、レタスを噛んだ。ひたすら、噛んだ。
陸さんのやりきれなさに、涙が出そうだった。
「あきらの言ったことは、正しい。あの彼氏クンなら麻衣を泣かせないかもしれない。幸せに出来るかもしれない。だけど、それを、指を咥えて見てることも、気持ちを殺して祝福することもしたくない。ま、全部俺の勝手だけどな」
ははっ、と笑った陸さんは、とても自信あり気には見えない。そんな、弱気な彼を見たのは、初めてかもしれない。
陸さんはいつも、冷静で、時々冷静過ぎて怖いくらいで、だけど、麻衣さんが泣かされたりすると、相手を殺しかねない勢いで殴りに行った。
きっと、仲間の誰が傷ついても同じように怒るだろうけれど、麻衣さんに向ける激情は、他の誰かに向けるものとは確かに違う。
大事に大事にしすぎて、大事にすることを使命みたいに思って、大事にする意味を忘れかけていたのかもしれない。
以前、陸さんは、自分と付き合ってうまくいかなかったら誰が麻衣さんを支えていくのか、と言っていた。
俺は、自分の幸せよりも相手の幸せを願える陸さんを格好いいと思った。
けれど、違うのかもしれない。
陸さんは、麻衣さんを失うことに怯えているだけなのかもしれない。
実際、大和さんは、陸さんが麻衣さんから逃げた、と言った。
その表現が正しいのかはわからないが、当たらずとも遠からず、ってところなのかもしれない。
その陸さんが、麻衣さんと正面から向き合おうとしている。
イギリス行きを控え、麻衣さんに幸せが訪れた、今。
「麻衣さんをイギリスに連れて行くつもりですか?」
「……ああ」
「――っ!」
本気だ。
しれっと言ったけれど、相当の覚悟だろう。
鶴本くんと別れさせて、仕事を辞めさせて、遠い異国に連れ去ろうとしている。
言葉も通じない、友達もいない場所へ。
たった一人。自分だけが支えとなれる。
「俺は、『みんなと一緒』なんて言わせたくないんだよ」
「え?」
「地球滅亡の時、迷わず俺といることを選んで欲しい」
「陸さん……」
「麻衣が、みんなと、なんて言っている今なら、奪えると思ってる」
そうかもしれない。
陸さんが本気で口説きにかかったら、麻衣さんは太刀打ちできないかもしれない。
だけど――――。
鶴本くんは手ごわいと思う。
それは、口には出来なかった。
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