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「ケーキとオードブルを予約したよ」
彪の従兄弟という人が現れた二日後、起き抜けに彪が言った。
昨日もそうだったけれど、一緒に眠るのに私が目覚めた時にはベッドにいない。
コーヒーの減り具合からして、三十分は前に起きているようだ。
私の起床自体、遅くはない。
今までは、私が朝食の準備を終える頃に彼は起きてきた。だから、彪はこの二日、いつもよりも一時間は早く目覚めていることになる。
「早いですね」
私はサイドテーブルのスマホで時間を確認する。
五時四十三分。
目覚ましが鳴るまで十七分。
「なんか、目が覚めてさ」
ベッドに腰かけた彪は、私に背を向けている。
スマホを見ているようだ。
「プレゼントは何が欲しい? 失敗したくないから教えて?」
「ケーキで十分です」
「椿らしいけど、それはプレゼントとは違うよ」
「彪」
「サプライズの方がいい?」
「彪、私は――」
「――それから、年越しは旅行に出ない? 温泉でも浸かって、さ」
お祖母さんは年を越せないかもしれないと言っていた。
「仕事納めが二十八だから、夜のうちに移動しちゃう? 定時で上がって車を走らせたら、朝ゆっくりできるだろ? 休みいっぱい、のんびりしようか」
「そんな贅沢――」
「――俺がそうしたいんだよ」
逃げているのではないか。
悪い意味ではなくて、彪はお祖母さんの訃報を受けたくなくて、旅行を提案しているのではないか。
そして私は、それではいけないと思う。
「さすがに夜の移動は大変ですし、大掃除とまではいかなくてもきちんとして出かけたいので、三十日の昼間の移動でお願いします。それから、帰りは二日で。三日は食材の買い物もありますし、仕事始めに備えて――」
「――っふ」
彪が息を弾ませ、私は首を傾げた。
「行ってくれるんだ、旅行」
「え?」
「いや……」
逃げている自覚はあるのだと思う。
そして、私がそれを許さないと思っている。
彪が、小さな子供の様に見えた。
私に叱られるんじゃないか、と怯えているような。
少し前の私なら、そんな風に思うなんて烏滸がましいと思っていた。
けれど、私自身が彪を好きだと、愛していると認めてしまうと、彪の私への愛情も勘違いなんかではなくて、それはもう全身で愛されていると認めるしかないほど幸せで。
だから、彪にも幸せを感じて欲しい。
何の迷いも疑いもなく、幸せだけを感じて欲しい。
「楽しみですね、旅行」
彪が微笑む。
私には、彼が涙を堪えているように見えたけれど。
横になったまま彼の腰に腕を回す。
「旅行では、手技と口技を披露いたします」
「朝から、大胆な宣言だな」
「私だって、彪に気持ち良くなって欲しいんです」
「十分気持ちいいんだけど?」
「もっとです」
彼の腰に顔をぐりぐりと擦りつける。
彼の大きくな手が、私の頭を撫でる。
「もっと、です」
悲しい過去や不安を全て忘れさせてあげられるのなら、どんなことでもするのにと思った。
*****
「あ――」
マンションの前に立つ人物に、私は足を止めた。
是枝聖也さん。
彼も私を覚えていたようで、迷わず歩み寄る。
今日は、彪が会議で遅くなるからと、私一人で帰宅した。買い物もしたかったし。
「柳田……椿さんですよね?」
「え?」
「すみません。彪……さんの居場所を調べていて、あなたと暮らしていることも知りました」
聖也さんは疲れ切った表情で、眉尻を下げた。
「そうですか」
「今日は、彪さんは……」
「遅くなります」
「そうですか……」
「はい」
私の立場で、聖也さんにどういった対応をすべきか、少しだけ考える。
そして、当たり障りのない質問を投げることにした。
「お祖母さまのお加減はいかがですか?」
「はい。あの……、あまり……良くないです」
「意識はあるんですか?」
「途切れ途切れ……ですが」
「そうですか……」
手に持っているエコバッグを肩に掛けた。
「申し訳ありませんが、彪さんは何時の帰宅になるかわかりません。今日はお引き取りいただいた方が――」
「――お願いです! 俺の話を聞いてください!!」
夜道に聖也さんの声が響く。
遠くでサクッと雪を踏む音が聞こえる。
断るべきだ。
彪がお祖母さんに会わないと決めたのなら、それを揺るがせるような情報は聞かない方がいい。
そうわかっているのに、立ち去れなかった。
「荷物を置いてくるので、駅前のカフェで待っていてもらえますか」
「はい。ありがとうございます!」
荷物を置きに部屋に上がり、買ったものを冷蔵庫に入れていく。その間、迷っていた。
待たせている以上、カフェには行くけれど、彼の話を聞いていいのだろうか。そして、それを彪に連絡しなくて良いものか。
彪にしたら、連絡して欲しいだろうし、聞かないで欲しいと思う。
聞いてしまったら、私は彪にお祖母さんと会うべきだと言ってしまうかもしれない。
それでも、もしかしたら、お祖母さんは彪に許されたがっているかもしれない。
お祖母さんが亡くなってしまったら、それはもうわからない。
私はマンションを出て、彪にメッセージを送った。
『聖也さんが会いに来ました。私が代わりにお話をうかがいます。勝手なことをしてごめんなさい』
すぐに既読が付かないところを見ると、まだ会議中のようだ。
私はカフェに急いだ。
聖也さんはわかりやすく、窓際の席に座っていた。
私はホットコーヒーを手に、聖也さんの向いに座った。
待たせたことを謝罪すると、彼は無理を言ったことを謝罪した。
「この前、彪さんに会った後で天川先生から聞きました。彪さんがお祖母さんからどんな仕打ちを受けていたのか。その理由も。それから、俺の祖父が……彪さんに酷いことを言ったことも」
「そうですか」
「ちょっと複雑な話になりますが――」
そう言って、聖也さんは彪も知らないらしい是枝家の秘密を話し始めた。
彪のお祖父さんが是枝家当主になった時、彼はお祖母さん――光代さんの姉の華代さんと結婚した。政略結婚だった。
翌年、華代さんは女の子を出産した。名前は、幸子で、彪の母親だ。つまり、彪が祖母と思っている光代さんは、祖母の妹だった。
幸子さんが八歳の頃、奔放な性格の華代さんが離婚届を置いて家を出た。使用人だった男と。
そして、光代さんが後妻に入った。
幸子さんは懐かなかったそうだ。
光代さんは姉とは違い、とても真面目で、是枝家の女主人としての役割を立派に務めたが、旦那さんが亡くなる時まで幸子さんとは打ち解けられなかった。
そして、幸子さんは十八歳で妊娠し、出産した。それが、彪。
幸子さんは父親の名前を言わなかった。
それどころか、赤ん坊の彪の世話を光代さんに押し付けた。
光代さんは未婚で子供を産んだ幸子さんを、遠方の良家に嫁がせた。
そして、彪は家政婦に育てられることになった。
彪は是枝家にとって汚点であり、親族一同にとって目の上の瘤だった。
成長し、是枝家の財産を要求されてはかなわないと、大学卒業と同時に家から追い出した。
聖也さんは光代さんの弟の娘の子で、赤ん坊の頃に両親が離婚し、実家に帰っていたことから、お祖父さんに連れられて光代さんと顔を合わせることが多かったそうだ。
実の祖母を亡くしてからは、光代さんを祖母として慕った。
そこまで聞いて、私はようやく気が付いた。
「じゃあ、あなたは是枝家の人間ではない?」
「そうです。是枝家は先代当主であるおば――光代さんのご主人が亡くなってから、光代さんが当主となって仕切ってました。が、先代当主がひとりっ子だったこともあり、直系は潰えてしまった」
「彪さんがそうではないのですか?」
「……それが、光代さんが彪さんを追い出した理由です」
彪さんは先代当主の孫ではなかった。
幸子さんは華代さんが結婚直前まで付き合っていた男の子供らしく、幸子さんがそれを知ったのは生まれたばかりの彪が是枝家の直系であることを証明するためにDNA検査を行ってのことだった。
「まさか、彪さんが是枝家の血筋じゃないから母親に捨てられたわけじゃ――」
「――――」
聖也さんは黙って唇を噛んだ。
幸子さんは、彪を産むことで是枝家の実権を握ろうとした。
が、彪はもちろん、自分も是枝の血筋ではなかった。
是枝家の当主の座を諦めた幸子さんは、光代さんが用意した縁談を受け入れた。
「どうして……お祖母様はそれを彪に言わなかったんです? 知っていれば、その時は傷ついたかもしれないけれど、謂れのない仕打ちに悩むことも苦しむこともなかったのに」
「それは……わかりません。けど、多分、祖父の考えだと思います」
「あの、話は前後しますが、あなたは是枝家の人間じゃないのですよね? なのになぜ、是枝姓を名乗っているのですか?」
「養子になったんです」
「養子? 是枝家の血筋でないのに?」
是枝家にしてみたら、当主の妻の弟の孫なんて、親戚と呼ぶにも遠い。
現当主からすれば、近い?
でも、ならば、現当主の姉の孫である彪だって後継者候補であっても良かったのではないだろうか。
聖也さんが言った通り、複雑で混乱してくる。
「一言で言えば、祖父の野心だと思います。祖父は、華代さんが先代当主に見初められた後から、是枝興産で働き始めたようです。そして、華代さんが家を出た後、光代さんを後妻にと強く薦めたのは、祖父だった。二人の姉を嫁がせることで、祖父の社内での立場は確かなものになったと聞きました。そして、後継者のいない今の是枝家に自分の孫を養子に出し、是枝家の次期当主の後継人として、実権を握りつつある」
「なのに、彪をお祖母様に会わせていいんですか? 彪がこのことを知ったら、あなたのお祖父様の思惑が――」
「――それでも、お祖母さんの最期の願いを叶えてあげたいんです。お願いします! お祖母さんに会いに行くよう、あなたから彪さんを説得してください」
聖也さんがスーツのポケットから手の平サイズのカードを取り出し、差し出す。
「あ、これ、俺の番号です。何かあれば――」
ドンッ! と衝撃音が聞こえ、私はビクッと肩を強張らせた。
窓の外を見ると、まさに鬼の形相といえる、お世辞にも紳士的ではない表情の彪が窓に手の平を押し付けて立っている。
その手が、グッと握られた。
これは、もしかしなくてもかなり怒っている。
私は素早く財布から千円札を取り出すと、聖也さんの名刺の上に置いた。代わりに、名刺を袖口に隠し持つ。
「えっ!? なんのお金――」
「――名刺代です」
「名刺代!? はっ!??」
「彪の説得は期待しないでください。では」
私は競歩張りの足の回転で、走らず、けれど最速で店を出た。
彪が乗り込んでくる前に出なければ。
それを察したのか、彪は店の前に移動しても、中に入っては来なかった。
「椿! どういう――」
「――お疲れ様です。さ、帰りましょう!」
彪の腕に自分の腕を絡ませ、引きずるようにして歩き出す。
「おいっ! 椿! 話を――」
「――寒いですね。早く帰ってお風呂で温まりましょう」
「……へっ!?」
「話はそれからです」
聖也さんには期待するなと言ったけれど、私は彪を説得する気満々で家路についた。