テラーノベル
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小高い丘の上に停められた黒塗りの車から、背広姿の紳士が声をかけた。
「国雄(くにお)様、そろそろ参りましょうか?」
「有島(ありしま)さん、もう少し待ってもらえますか?」
「もちろん構いませんが、まだ何か?」
「最後に、この棚田の風景を目に焼き付けておきたいんです」
「なるほど。アメリカへ渡られると、しばらくはこの景色もご覧になれませんからねぇ」
「はい……すぐ戻りますので」
国雄はそう言って、棚田のあぜ道へと向かった。
青年の名は、村上国雄(むらかみくにお)、22歳。彼は村上セメント株式会社の御曹司だった。
村上セメントはこの地で創業し、以来関東一帯へと勢力を広げている。時代の変革に伴い、セメントの需要はうなぎ登りで、会社の規模はますます拡大していた。
国雄は近々アメリカへ留学する予定だ。その背景には、さらなる事業拡大を見据えた父の意向がある。彼の父は、息子に海外の経営戦略を学ばせることで、視野を広げさせようと考えていた。
もちろん、国雄自身もアメリカで学ぶことを心待ちにしていた。
(空が茜色に染まってきたな……)
棚田のあぜ道を歩いていると、爽やかな風が吹き上がり、国雄の頬を優しく撫でた。
彼はふと足を止め、目の前にそびえ立つ山をじっと眺める。
棚田と向かい合うように立つその山は、山肌の一部が削り取られ、白い石灰石がむき出しになっていた。
山の麓には、大きな工場が佇んでいる。村上セメントの石灰石採掘場だ。
(この景色とも、しばらくお別れか……)
国雄が感慨深い思いで景色を眺めていると、ふと人の気配を感じた。
その方向へ目をやると、前方の柿の木の根元で、7~8歳の少女がしゃがんでいるのが見えた。
少女は、まっすぐに伸びた黒髪を肩まで下ろし茜色の着物に身を包んでいた。髪には同系色のリボンを結んでいる。
ぱっちりとした目は可愛らしく、口元の左下にあるほくろが印象的だった。
大きくなれば、さぞや美人になるだろうと思われた。
少女に近付くと、彼女は顔を上げにっこりと微笑んだので、国雄は声をかけた。
「こんにちは! こんなところで何をしているんだい?」
「私ね、おたまじゃくしを捕まえに来たの」
「おたまじゃくし? ああ、たしかにいっぱいいるね」
国雄は田んぼを覗き込みながら、軽く頷く。
「でもね、捕まえた後、どうやって家に連れて帰ったらいいのか分からなくて……」
少女が少しませたような口調で言ったので、思わず国雄はクスッと笑った。
「何か入れ物が必要だね。水も一緒に入れてあげないと……ちょっと待ってて」
国雄は少女にそう言い残して、車の方へ引き返した。
そんな彼の後ろ姿を、少女はきょとんとして見つめていた。
車へ戻った国雄は、車内にいる有島に声をかける。
「有島さん、ドロップの缶ってありましたよね?」
「はい、ございますが、それが何か?」
「あそこにいる少女が、おたまじゃくしを捕まえて持って帰りたいそうなんです。だから、その缶を使ってもいいですか?」
「ははぁ、なるほど。そういうことなら、お使いください」
「ありがとう。それじゃあちょっと行ってきますね」
国雄はドロップの缶を受け取ると、少女の元へ戻っていった。
「この缶に入れて持って帰るといいよ」
「わぁ、ドロップ! 私、それ大好き!」
「ごめん、中は空かもしれない……」
国雄はそう言いながら缶を振ってみると、中からカランカランという音が響いた。
「少し残ってるみたいだね」
「わぁ!」
少女が嬉しそうに声を上げると、国雄は缶の中からドロップを手のひらに出した。
「ちょうど二つ残ってる。白と緑、どっちがいい?」
「緑がいい!」
少女が迷わず叫ぶと、国雄は緑色のドロップを摘まんで彼女の小さな手の上に載せた。そして、残りの白いドロップをポイッと口に入れる。少女も国雄の真似をしてドロップを口に入れた。
「わあ~、あまーい!」
少女はにこにこと微笑んだ。その笑顔は、とても愛らしかった。
少女がドロップを頬張っている間、国雄はドロップの缶を田んぼの水に浸し、中を軽くすすいだ。
少女はそれに気付くと、慌てて田んぼの中を覗き込み、おたまじゃくしを捕まえようとする。
しかし、彼女の手が近付くと、おたまじゃくしたちは敏感に反応して逃げてしまった。
「うまく捕まえられないわ」
「僕に任せて!」
そして国雄は、器用におたまじゃくしをすくい上げ、次々と缶の中に入れていった。
「何匹くらい欲しいの?」
「うーん、10匹!」
「よし、じゃあこれで10匹だな」
国雄はそう言いながら、最後の一匹をすくって缶の中に入れた。
それから、少し水を足して蓋をしっかり締め、少女に渡した。
「はい!」
「わぁ、お兄さん、ありがとう!」
「帰ったらすぐに大きな入れ物に移し替えるんだよ」
「わかったわ。餌は何をあげたらいいの?」
「おたまじゃくしを飼うのは初めて?」
「うん!」
「そっか。僕が子供の頃は、鰹節を餌にしてたよ」
「鰹節ね! だったら、おうちにあるわ!」
「あんまりあげすぎると、水が濁って臭くなるから、控えめにね。あと、水もこまめに取り換えるんだよ」
「うん、わかった!お兄さん、ありがとう!」
「どういたしまして」
国雄がにっこりと微笑んだ瞬間、少女の身体が茜色に染まった。
「わぁ……夕焼け……」
「綺麗だな」
二人はその場に立ち尽くしたまま、茜色に染まった空を仰ぎ見た。
(戻って来たらまた会おう! 美しい我が故郷の夕焼けよ……)
その時、車の方から声が響いた。
「国雄様~! そろそろ出発しないと、お時間が……」
「わかった、今行くよ!」
国雄はそう返事をすると、少女の方を向いて言った。
「じゃあね、お嬢ちゃん」
「お兄さん、もう帰っちゃうの?」
「うん。またどこかで会いましょう!」
「はいっ!」
少女は可愛らしいえくぼを浮かべながら、にっこりと微笑んだ。
歩き始めた国雄の背中に、少女の声が響いた。
「お兄さーん、ありがとうー!」
国雄が後ろを振り返ると、少女は笑顔を浮かべながら両手を振っている。
彼は少女に手を振り返すと、車へと向かった。
コメント
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遅れながら、読ませて頂いておりますー🩷🩷🩷
大正時代の和やかな田んぼ風景に男女がドロップ缶にオタマジャクシを入れる様子に落ち着きのある時代を感じます🌾🏞️ 数年後2人の再開を期待して✨そして恋愛も❤️🤭
この出逢いから国雄さんとお嬢ちゃんいつ再び逢うことが出来るのかしら?情景が浮かびます