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車が坂道を下る中、国雄が有島に尋ねた。
「あの子は誰の娘だろう？」
「おそらく、大瀬崎様のお嬢様かと存じます」
「大瀬崎？」
「はい。製糸工場を経営されている大瀬崎様です。先ほど、あちらの運転手と少し立ち話をいたしましたので」
「製糸工場の社長が、どうしてこんな山奥に？」
「ははっ、国雄様がこの辺りの地主、八木家のご長男様とご学友でいらっしゃるように、大瀬崎様も八木様と親しくされているようですので、それでご訪問されたのでしょう」
「なるほど……。大瀬崎の製糸工場はここから近いしな」
「左様でございます」
国雄は窓越しに流れる景色を眺めながら、先ほど出会った少女の面影を思い返していた。
（ずいぶん可愛らしい活発な娘だったな……）
少女の面影を思い浮かべ、国雄は思わず頬を緩めた。
その頃、棚田には、少女の名を呼ぶ声が響いた。
「紫野（しの）～！ 紫野～！ どこにいるの？」
「お母様！ ここにいるわ！」
「あら、またそんなところで泥遊びをして！」
「泥遊びじゃないわ、おたまじゃくしを捕まえていたのよ」
「まぁ！ まさか、おたまじゃくしを家に連れて帰るつもりじゃないでしょうね？」
「もちろん連れて帰るわ。だって、お兄さんがこの缶に入れてくれたんだもの」
紫野は得意気に、ドロップの缶を母親に見せた。
少女の名は、大瀬崎紫野（おおせざきしの）。紫野は現在8歳で、今日は両親とともにこの辺り一帯の地主である八木家を訪れていた。なぜなら、紫野の父親は、八木家の当主と親しくしていたからだ。
紫野の父・大瀬崎将太（おおせざきしょうた）は、町で最も大きな製糸工場・大瀬崎蚕糸株式会社を経営しており、柴野は将太の一人娘だった。
「そのドロップの缶はどうしたの？」
「お兄さんがくれたの」
「お兄さんって？」
紫野の母が辺りを見回したが、棚田には他に誰もいなかった。
「お兄さんは、もう帰ったわ」
その時、紫野の父親が近付いてきた。
「ははは、きっと村上さんのところのご長男だろう」
その声に、紫野の母が反応した。
「村上さんって……あの村上セメントさんのこと？」
「そうだよ。彼は八木さんのところのご長男と同級生らしい」
「まあ、そうだったのね！ 村上家のご子息は、近々海外へ行かれるという噂を耳にしましたわ」
「ああ、アメリカへ行くらしいね。だから、旧友に挨拶でもしに来たんだろう」
「そうだったのね。それにしても、親切なお方ね。紫野に優しくしていただいて……」
そこで、紫野の父親が言った。
「紫野、よかったな。これでおたまじゃくしが飼えるぞ」
「はい、お父様！ 紫野、とっても嬉しいです」
「じゃあ、早く帰っておたまじゃくしをタライに移してやらなくちゃな」
「はいっ！ あ、お母様！ 帰ったらこの子たちの餌に鰹節を少しちょうだい！」
「まぁ、鰹節を食べるなんて、なんて贅沢な！」
妻の言葉に、夫の将太はからかうように言った。
「こんなに小さな生き物が食べる量なんて、たかが知れてるだろう？」
「それはそうだけど……」
「お母様のけち！」
「紫野ったらなんてひどいことを！」
妻の言葉を聞いて、将太が笑い出したので、紫野と母もつられて笑った。
茜色に染まった棚田には、親子三人の楽しそうな笑い声が響く。
「さあ、紫野、帰ろうか」
「はい、お父様！」
紫野は父親が差し出した大きな手を握ると、車へ向かって歩き始めた。その後ろを、母親が笑顔でついていく。
家に帰った紫野は、さっそくブリキのタライに水を張り、ドロップの缶の蓋を慎重に開けた。そして、中のおたまじゃくしをタライにそっと放つ。
広い水場に移されたおたまじゃくしたちは、嬉しそうにピチピチと跳ねていた。
「あなたたちは、大きくなったら蛙さんになるのよ……」
しゃがみ込んだ紫野は、にこにこしながら嬉しそうにおたまじゃくしを見つめる。
それと同時に、先ほど棚田で出逢った男性の姿を思い返した。
男性はとても背が高く、端正な美しい顔立ちをしていた。
仕立てのいい背広を纏い、颯爽とした立ち姿が印象的だった。この町では、あの若さで背広を着こなしている人は珍しい。
（とても素敵なお兄さんだったな。紫野にもあんなお兄さんがいたらいいのに……）
一人っ子の紫野は、ふとそんな風に思った。
（お名前は『ムラカミ』？ 下のお名前は何かしら？）
そう思いつつ、紫野はなぜかまたあの男性に会えるような気がしていた。
紫野はもう一度タライの中を覗き込むと、えくぼを浮かべてにっこりと微笑む。
それから、おたまじゃくしの餌にする鰹節をもらいに母親の元へ向かった。
コメント
56件
明るく活発な紫野ちゃん…🐸♪ 美しく成長した頃に、国雄さんと再会するのでしょうか！？ 楽しみです🍀
出遅れました‼️楽しみです。
天真爛漫で賢いステキな紫野ちゃん😊💓 優しいご両親に育てられたお嬢様な紫野ちゃん。からはまだステキなお兄さん✨ 國雄さんは淡い初恋💕かな⁉️ アメリカから戻る頃には2人とも恋愛対象かしらん⁉️🥰😘💝ﾌﾌﾌｯ
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