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翌朝、友香は想一郎を駅舎裏の小さな待合室へ呼び出した。
逃げ場のない場所を選んだつもりだった。
「九十日間の利用実証案」
机の上に、千恵実から見せてもらった資料の写しを置く。
「これ、想一郎が出したんだよね」
想一郎はしばらく黙っていたが、やがて頷いた。
「そうだ」
「廃止を決めに来たんじゃなかったの?」
「違う」
その一言を、友香はずっと待っていた。
けれど安心より先に怒りが湧く。
「じゃあ何で言わなかったの」
「通るか分からなかったから」
「それだけ?」
想一郎は視線を落とした。
「星見線は、このままなら廃止になる」
営業赤字。
橋梁。
信号設備。
友香も数字は見た。
「会社の中でも、もう維持できないって意見が多い。だから俺は、廃止を止めろって言うんじゃなくて、残せる条件を数字で示そうとした」
「九十日で?」
「まずは実証する。通学、通院、観光、沿線店舗の利用。鉄道単体じゃなくて、生活と一緒に組み直して利用が増えるなら、廃止以外の選択肢を出せる」
友香は資料を見た。
昨日、自分たちが集めた声とよく似ている。
「私たちがやってたこと、想一郎も考えてたんだ」
「全部じゃない。現場の声は足りなかった」
「だから一人で来たの?」
「……それもある」
想一郎の返事が鈍くなる。
友香は逃さなかった。
「まだあるよね」
「友香」
「今度は最後まで言って」
長い沈黙。
やがて想一郎は、両手を膝の上で組んだ。
「この実証が失敗したら、俺が責任を取ることになる」
「責任って?」
「担当から外れるだけじゃ済まないかもしれない。地方への異動か、条件によっては退職も考えることになる」
友香は言葉を失った。
「そんな話……」
「結婚した直後に、住む場所が変わるかもしれない。友香の仕事にも影響が出る。新居だって無駄になるかもしれない」
「だから結婚を延期したの?」
「安定してから話したかった」
友香は目を閉じた。
やっと分かった。
想一郎は結婚したくなくなったのではない。
逆だ。
失敗した未来に友香を巻き込みたくなくて、成功するまで一人で抱えようとした。
理由は分かった。
それでも納得はできなかった。
「想一郎」
「うん」
「それ、優しいことだと思ってた?」
想一郎は答えない。
「私が仕事をどうするか。どこに住むか。あなたが異動したらどうするか」
友香は一つずつ言った。
「全部、私にも決める権利があるよ」
「でも、友香に負担を」
「負担かどうかも私が決める」
想一郎が顔を上げる。
「失敗するかもしれない未来も含めて、私が選ぶ権利があるの」
友香の声は震えなかった。
「結婚って、いい未来だけ一緒に選ぶことじゃないでしょ」
想一郎の目が揺れた。
「……そうだな」
「今さら?」
「今さらだ」
彼は苦く笑った。
友香は、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
まだ許したわけではない。
でも、初めて同じ場所に立って話している気がした。
「もう一つ聞く」
友香は鞄から黒いノートを出した。
『鉄の道に刻まれた未来』
表紙を見た瞬間、想一郎の表情が変わる。
「これ、誰の?」
「父さんのだ」
「やっぱり」
想一郎はノートを受け取り、古いページをゆっくりめくった。
「父さん、星見線の駅員だった。乗客が少なくなっても、数字だけじゃ見えないものがあるって言ってた」
想一郎は古いページを撫でた。
「子どもの頃、休みの日に何度かついて行った。父さん、駅で顔を見る人の名前をほとんど覚えてたんだ。病院へ行く人には帰りの列車を教えて、高校生には試験の日の時刻まで気にしてた」
「そんな人だったんだ」
「効率が悪いって笑われても、『一人減った、で終わらせたら理由が消える』って言ってた」
友香はノートに並ぶ細かな数字を見直した。
ただの乗車人数ではない。
その数字の向こうに誰がいたのかを忘れないための記録だったのだ。
「だから想一郎も、廃止って言われて放っておけなかった?」
「たぶん。父さんと同じことができるとは思ってない。でも、終わらせる前に残せる道が本当にないのかだけは確かめたかった」
「星印も?」
「住民の話を聞いた場所につけてた」
友香は潮見駅を思い出す。
「案内板の裏に『この駅の声を残す』って書いてあった」
「父さんの字だと思う」
「じゃあ、あれも」
「たぶん」
想一郎の指が、破られた最後のページで止まった。
友香はその手を見る。
「ここ」
想一郎の指がわずかに強張る。
「破ったの、想一郎でしょ」
「……うん」
「どうして?」
しばらく答えなかった。
「父さんが亡くなったあと、そこだけ持ち歩くようになった」
「持ち歩く?」
「忘れたくなかったんだ。父さんが最後に書いたことを」
友香は胸の奥がざわついた。
「今も持ってる?」
想一郎は頷いた。
「じゃあ、見せて」
彼の手が止まる。
「友香」
「ここまで来て、また隠すの?」
想一郎は何も言わなかった。
長い沈黙のあと、上着の内ポケットから財布を取り出した。
中を開く。
そして、何度も折り畳まれた一枚の古い紙を、ゆっくり取り出した。
友香は息を止めた。
黒いノートから失われていた、最後の一ページだった。
コメント
1件
このエピソード、すごく良かったです。想一郎が「結婚を延期したのは嫌いになったからじゃない」って分かってからの、友香の「負担かどうかも私が決める」の台詞にぐっときました。あと、父親のノートと破られた最後のページの伏線がここで繋がるんですね。駅舎裏という狭い空間で、お互いの本音をようやく重ねられた感じがして、胸が熱くなりました。