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想一郎が差し出した紙は、何度も開かれたせいで折り目が白くなっていた。
友香は両手で受け取る。
黒いノートの最後に残っていた切れ端と、破れ方がぴたりと合いそうだった。
紙には、短い文章が書かれていた。
『守るとは、相手の代わりに決めることじゃない。選べる道を残すことだ』
友香は、しばらく声が出なかった。
「……これを、ずっと持ってたの?」
「父さんが亡くなってから」
「毎日?」
「財布を替えても、これだけは移してた」
想一郎は苦く笑った。
「忘れたくなかったんだ」
友香は紙を見つめたまま言う。
「でも、私には逆のことしたね」
「うん」
言い訳はなかった。
「結婚を延期するって決めて、仕事のことも黙って、星見線から離れろって言って」
「全部、俺が先に決めた」
「私が選べる道、消してたよ」
「分かってる」
想一郎の声が低くなる。
「今になって、ようやく」
友香は紙を机の上へ置いた。
想一郎はその紙を丁寧に折り直し、財布へ戻した。
怒りはまだ残っている。
けれど、それだけではなかった。
想一郎が怖がっていたことも、今は少し分かる。
仕事を失うかもしれない。
住む場所が変わるかもしれない。
結婚した直後の友香まで巻き込むかもしれない。
だから一人で何とかしようとした。
優しさのつもりで。
間違った形のまま。
「私も、昨日まで怒ってばっかりだった」
想一郎が顔を上げる。
「それは怒っていいだろ」
「怒るのはやめない」
「やめないんだ」
「やめる理由ないし」
友香は少し笑った。
「でも、あなたが何を怖がってたのか、ちゃんと聞こうとはしてなかった」
「友香」
「だから、今すぐ元通りにはしない」
想一郎の表情が固まる。
「婚姻届」
友香は鞄からクリアファイルを出した。
二人の署名が入った紙。
「一週間後に出す予定だったけど、出さない」
想一郎の目が揺れた。
「ただし」
友香は続ける。
「あなたが一人で延期を決めたからじゃない。今は、私も出さないって決めた」
「……うん」
「九十日」
「え?」
「星見線の実証、九十日なんでしょ」
「ああ」
「それが終わった時に、もう一回二人で決めよう」
友香は婚姻届をクリアファイルへ戻した。
「結婚するかどうか。出すならいつ出すか。どこに住むか。仕事どうするか。全部」
想一郎は何も言わなかった。
やがて、ゆっくり頷く。
「分かった」
「今度は勝手に決めない?」
「決めない」
「悪い話ほど先に言う?」
「言う」
「本当に?」
「……努力する」
「そこは言い切って」
「言う」
友香はようやく笑った。
その日の午後。
千恵実の事務所に五人が集まった。
友香。
想一郎。
里樹。
千恵実。
勝人。
「何で俺がこいつと同じ机なんだ」
勝人が想一郎を睨む。
「私が呼びました」
友香が言う。
「嫌なら帰ってもいいです」
「誰が帰るか」
「じゃあ始めます」
千恵実が大きな地図を机へ広げた。
「九十日間で何を変えるか、役割を分けましょう」
想一郎が会社側の条件を説明する。
「比較対象は前年同時期の九十日間。星見線全体の利用者数を二十%以上増やす。それが最低条件だ」
「二十%?」
里樹が眉を上げる。
「簡単じゃないな」
「だから、観光客だけでは足りない」
友香はこれまで聞いた声を書いた紙を並べた。
「高校生の通学。病院へ行く人。買い物。一人旅。宿泊」
千恵実が地図に色を分けて印を付ける。
「駅から先の移動も必要です。病院の送迎バス、商店、宿、路線バスの時刻を一枚で見られるようにします」
「俺は?」
里樹が聞く。
「動画」
友香が即答した。
「ただし『消えそうだから来て』じゃなくて、実際に一人で回れるルートを撮って」
「了解」
「勝人さんは」
「分かってる。店を集める」
「早い」
「一人一回乗って終わりじゃ駄目なんだろ。だったら駅で降りる理由を増やす」
想一郎が初めて勝人を見る。
「協力店舗の利用記録も取れますか」
「会社のためじゃない」
「町のためでいいです」
勝人は少し黙った。
「……ならやる」
友香は地図の端に、自分の名前を書いた。
「私は、一人で来る人の動きを見る」
「友香が?」
「だって私、ここに来た時本当に何も分からなかったから」
潮見駅で降りた時。
雨宿りで偶然千恵実に会った時。
何を見ればいいか、どこへ行けばいいか、全部手探りだった。
「初めて来る人が、どこで困るかを調べる。それならできる」
五人の役割が、少しずつ形になっていく。
意見は違う。
目的も完全には同じではない。
それでも、同じ紙の上に手を伸ばしている。
夕方、想一郎のスマートフォンが鳴った。
画面を見た彼の表情が硬くなる。
「会社から?」
友香が聞く。
「うん」
以前なら、想一郎は一人で外へ出てから確認したかもしれない。
けれど今回は、その場でメールを開いた。
全員が見守る中、想一郎が読む。
「実証案、条件付きで承認された」
勝人が立ち上がる。
「本当か!」
「ただし」
想一郎は続けた。
「前年同時期比、利用者二十%増。届かなければ、廃止案をそのまま進める」
部屋の空気が変わった。
友香は壁のカレンダーを見る。
今日から九十日。
その先には、星見線の答えと。
自分たちの結婚の答えがある。
「じゃあ」
友香はペンを握った。
「始めよう」
九十日後に、自分たちで選べる道を残すために。
コメント
1件
第9話、読んだよ…! 想一郎がずっと財布に入れてた父親の言葉、あれがめっちゃ刺さった。「守るとは選べる道を残すこと」って、なんで今まで伝えられなかったんだろうって思うけど、彼なりの怖さも今は分かる気がする。 友香が怒りを手放さずに、でも話し合おうとしたのがすごく良かった。婚姻届を出さないって決めたのも、二人で決めるって約束したのも、ちゃんと夫婦っぽくて… "努力する" じゃなくて"言う"って言い直させるとこ、好きだわ。 星見線を守る五人のチームも熱い!90日後、どうなるかめっちゃ気になる🔥