コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
「ちょっと……一杯飲んでいいかな」
「え? あ、はい。あ! お持ちします」
「うん、ありがとう。冷蔵庫からビール取って来てもらっていい? よければ、柳田さんも飲んで?」
「はい!」
真面目に仕事をしているのがバカらしくなるような噂に、冷蔵庫までビールを取りに行く気力もない。
すぐに柳田さんが缶ビールを二本、持って戻る。
俺は受け取ると、無言でプルを引き開け、ゴクゴクと音を鳴らして冷えたビールを飲む。
ぷはっと息をつくと、缶をテーブルに置いて、柳田さんと向き合った。
「俺はゲイでもEDでもないから!」
「す、すみません。失礼なことを――」
「――本当だから」
「は、はい!」
「マジで!」
「はい!!」
好きな女にゲイだのEDだのと疑われたショックのあまり、必要以上に力を込めて否定する。
「あ、柳田さんも飲んで。晩飯まだだよね? なんか、つまめるモンあったかな……」
力なく立ち上がる。
「わ、私が! 冷蔵庫の中を見せていただきます!」と、彼女は手つかずの缶をテーブルに置いて立ち上がった。
「いや、いいよ。家事は週明けからにしよう。たいしたものもないはずだし。ちょっと待ってて」
「はあ……」
冷蔵庫の中身をひっくり返して自棄食いしたい気分だ。だが、満足するほどの食料もない。
とりあえず冷凍庫の枝豆を流水で解凍し、好物で買い置きしてあるトマトをスライスし、モッツァレラチーズとバジルをのせてオリーブオイルをかける。あとは、ミックスナッツを皿に盛った。
「今更だけど――」と、俺は二本目のビールを開けながら聞いた。
「柳田さんの恋人に知れたらマズいよな」
まったくもって、今更だ。
彼女には弁当を作る相手がいる。
だから、俺もアパートの立ち退き云々について口を出さずにいた。
が、誰に頼る様子もなく、ウィークリーマンションに引っ越そうとしているのが不思議だ。
「恋人なんて! 滅相もありません。そんなお相手は生まれてから今この瞬間までいたことはありません!」
全力で否定され、驚いた。
「え? けど、前に弁当を作ってやってるって……」
「お弁当……ですか?」
本気で心当たりがないようだ。
「うん。柳田さんが俺に弁当をくれた時、『今日は天気がいいから外で食べるとかで、余った』って言ってたろ?」
「そんなこと、言いました?」
「うん」
シンキングタイム。
「天気がいいから……。あ! ああ!」と、彼女が大きく頷いた。
「あれは、いつも社食を利用してくださる社員さんが、天気がいいから外で食べようって話しているのを聞いたんです。実際、その日はあまりお客様がいらっしゃらなくてお惣菜が余ったんです。そういう時は、従業員で安く買い上げたりしていて」
「そう……なんだ」
勘違いだったと、柳田さんに恋人がいないと知って、嬉しくなる。
その上、生まれてから一度もいたことがないだなんて、超個人情報だ。
気が緩むと、顔の筋肉まで緩みそうだ。
「なんか、ごめんね? 勘違いしちゃって」
「いえ! 私こそ、その、失礼な噂を信じそうになってしまって、すみません」
「俺、ゲイっぽい?」
「えっ? いえ! まったく!! どちらかといえば女性の扱いに慣れていそうだと感じました。ですが、恋人も恋人じゃなくても親しい女性はいないと聞いて、疑ってしまって。申し訳ありません!」
床の上で土下座に近い体勢で頭を下げられる。
「噂は柳田さんのせいじゃないから。けど、そんな意外? 俺に女の影がないの」
カプレーゼを口に入れる。
皿を差し出すと、彼女もそうした。
「意外……といいますか。当然のように思っていたので」
「当然?」
「はい」
柳田さんがぐびっとビールを飲み干し、缶をぐしゃっと握り潰した。
そこで、ん? と思った。
心なしか顔が赤い。
缶ビール一本で酔った?
「部長のような男性として脂ののった年頃のイケメンなら、恋人の一人や二人、セフレの三人や四人はいてもおかしくないと思ってました!」
思わずぶほっと咳き込む。
危うく、昔のコントのように口の中のビールを彼女の顔めがけて吹き出すところだった。
脂って……テカッてるって意味じゃないよな!?
いや、それよりも!
「ちょ、セフレって――」
「――ゲイの噂の前は、肉食獣だったんですよ?」
「肉食獣?」
「はい! 女性社員が言ってました。是枝部長に食べられたいって! 一晩だけでもいいとか、一回じゃ終わらなそうとか、超野獣っぽいとか!」
「ちょっと待って! 昼の社食だよね!? そんな話してんの?」
「してます! 人気のある男性社員の話、すっごい聞きます。是枝部長の同期の谷課長のこともよく聞きます。課長なら不倫でもいいとか」
うちの会社の女性社員の常識はどうなっているのか。
つーか、俺、そんな肉食でもないし……。
ソファの背にもたれ、天井を仰ぐ。
「噂の的の是枝部長と一緒に暮らすなんて、私、刺されませんかね?」
見ると、柳田さんが両膝を立てて、両腕でそれを抱きかかえるようにして座っている。
膝の上に顎を載せている様は、三つ編みのせいもあって何だか幼い子供の様。
「まだ借金も残ってるし、死にたくないな……」
「そこは、まだお嫁にも行ってないし、とかじゃないの?」
死んだら借金チャラだろ、と思った。
「お嫁……は無理ですよ」
柳田さんは瞼を閉じ、ややしばらくしてゆっくりと開いた。
もしかしなくても、彼女は酒に弱いらしい。
「金持ってる男捕まえて、借金返済してもらうとか考えないの?」
「え! 恋人って借金の面倒も見てくれるんですか?」
「いや、普通はないけど、すげー金持ちならあるかも?」
実際、ふとしたことで俺が年不相応な金を持っていると知った女が、実家の事業に融資して欲しいと言ってきたことがあった。
「でもなー。私、担保になるものないしなー」
どこまでも真面目な考えに、思わずフッと笑いがこぼれる。
「恋人相手に担保が必要? ベッドの上で可愛くお願いしたらいーんじゃない?」
「可愛くお願い……」と呟き、瞼が閉じる。
「でもなー。私、可愛くないしなー」
唇を尖らせ、首を傾げる。
いや、もう、十分可愛いけど!
EDも治りそうな仕草だ。
いや、EDではないけれど。
だから、尚更、普段の真面目過ぎるほどの姿勢や言動とのギャップに、心臓と股間を鷲掴みにされた。
ここは押していいよな?
「柳田さんは可愛いよ」
言った瞬間、彼女の目がパチリと開く。
「あ、これ、セクハラ?」
言ってから、さっき既にベッドの上でどうとかしっかりセクハラ発言をしていたと思い出した。
「是枝課長はコンタクトですか?」
「え? うん」
「度、合ってますか?」
「うん。大丈夫だと思うけど」
「では、B専というやつですか?」
顔を上げ、膝を抱えていた両手を床につき、前のめりになる。
「B……専て――」
「――ブス好きだそうです! 私も最近知ったのですが――」
「――うん! 意味は知ってる! 知ってるけど、どうして――」
「基山さんのような若くて可愛い子を振って、私のような地味でさえない女をアシスタントにした部長は、B専ではないかと女性社員が言っていました」
噂もここまでとなると、笑うしかない。
「あ! 女性社員の噂話もセクハラになるのでしょうか? もし、コンプライアンス委員会に訴えるのでしたら、証人として微力ながらお力添えを致したく――」
「――ありがとう! でも、うん、大丈夫」
興奮気味に、少しずつ間合いを詰めてくる柳田さんは、既に俺の足元に迫っている。
酒のせいか興奮のせいか、瞳が潤んで見えて、上目遣いが股間を刺激する。
それを気づかれまいと、俺はソファから滑るように下りた。
柳田さんと向かい合うように正座をする。
「柳田さん」
「はい」
「柳田さんはブスではないし、俺もB専ではない。俺はきみを可愛いと思う」
女性に可愛いと言って、眉間に皺を寄せられたのは初めてだ。
笑えるほど、信じてない表情。
だが、ここで引き下がっては男が廃る。
「本当だよ。ベッドできみに可愛くお願いされたら、代わりに借金返済しちゃうかもしれないよ」
言ってから、実は俺も少し酔っているのだと自覚した。
さすがに、クサすぎる。
つーか、変態っぽい。
だが、柳田さんは見る見る間に顔を赤らめ、後退る。
「そっ、尊敬する是枝部長に借金を返済していただこうなど、滅相もございません!」
時代劇で、「ははーっ」と殿様に頭を下げるかのような、綺麗な土下座。
このシチュエーションで、ベッドで云々よりも借金返済の方を取るとは、さすがとしか言いようがない。
口説き方がまったくわからない……。
「とりあえず、借金はさておき、明日はアパートから荷物を運ばなきゃいけないし、今日はもう寝ようか。あ、部屋はそっちを使って? クローゼットに布団が入ってるから、とりあえず今日はそれで我慢してもらえるかな。嫌でなければ俺のベッドを使ってもらってもいいんだけど、片付けてないし――」
「――いえっ! そんな! 恐れ多い!!」
柳田さんが顔の前で両手をブンブン振る。
彼女の中で、俺はいったい、どれだけ崇高な存在なのか。
「このソファでも! いえ、床でも全然かまいませんので――」
「――そんなこと言ってると、襲われちゃうよ?」
ここまで安全牌扱いをされると、さすがにやり過ぎたくもなる。
俺は柳田さんの三つ編みを手ですくい上げた。
「俺が、泊めてやるから初めてをよこせなんて言う男だったらどうするの?」
じりじりと顔を近づける。
「初めて……?」
「そ。初めては好きな男とが――」
「――何が初めてでしょう?」
「え?」
「?」
互いに顔を見合わせ、一時停止する。
それから、先に口を開いたのは、俺。
「恋人、いたことないんだよね?」
「はい」
「だったら――」
「――ああ! 性行為の経験が、ということですか。いえ、初めてではありません」
「……?」
ハジメテデハアリマセン?
「なので、その点はお気遣いなく!」と言うと、すっと立ち上がった。
「では、洗面所をお借りした後、休ませていただきます。本日は本当にありがとうございました。不束者ではありますが、これからよろしくお願い致します」
腰を直角に折り、三つ編みを揺らして、結婚の挨拶のような礼を述べて、柳田さんがリビングを出て行った。
俺は、しばらくその場で呆けていた。
かもしれない、なんてレベルではなかった。
俺は、柳田さんが好きだ。
彼女が処女かもしれないと思い込んだ矢先にそうではないと知って、思考を停止してしまうくらいには、好きだ。