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#海辺の町
「補修計画の提出と、安全利用の範囲設定を条件に」
審査担当は一つずつ言葉を置いた。
「この離れの取り壊しは、見送ります」
一拍遅れて、離れの中に息が戻った。
最初に声を上げたのは義海だった。
「やったあ!」
それにつられるように、あちこちで笑い声と泣き声が混ざる。莉々夏は両手で口を押さえ、海花は目元をぬぐい、絋規は誰より先に拍手を始めた。
享佑は腕を組んだまま天井を見上げていたが、耳まで赤かった。
蓮都は遼征の背中を強くたたき、遼征は珍しく声を出して笑った。
澄江は札を胸に抱いたまま、何度もうなずいていた。
「よかった」
その一言には、今日だけでなく、戻れなかった年月のぶんまで入っていた。
啓介はその場で立ち尽くした。
離れは残る。
壊されない。
その事実が、あまりにも大きくて、すぐには喜びきれない。
芽生が隣に来る。
「啓介さん」
「……はい」
「残りましたね」
啓介はようやく笑った。
「残りました」
その瞬間、啓介は思わず芽生のほうを向いた。
けれど胸の奥に、別の現実も同時に差し込んでくる。
離れは残った。だが、芽生の出発の日は近いままだ。
皆が喜ぶ真ん中で、それだけは消えなかった。
うれしいのに、少しだけ苦しい。
芽生も同じことを思ったのか、笑ったあとで目を伏せた。
春の終わりは、何かが残る日であると同時に、何かが動き出す日でもある。
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