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初夏のルメリアは、朝だけ少しやさしい。
王都から北へ七日。雪解け水が石畳の継ぎ目を走り、砦の外壁には夜の冷えがまだ薄く残っている。書庫勤めのイルネリオは、いつものように机の縁を布で拭き、古文書の角をそろえ、窓を半分だけ開けた。そこまでは、昨日までと同じ朝だった。
違っていたのは、水の味だ。
木杯を口に運んだ瞬間、舌の上で冷たさが三つに割れた。井戸水の澄んだ甘み、その奥に沈んだ鉄の匂い、さらに壁の向こうからしみ出したような、灰を噛んだあとの乾いた気配。喉へ落ちる前から、北側の石壁に細いひびが一本入っていることまでわかってしまった。
イルネリオは反射的に杯を机へ戻した。こぼれた雫が紙端をぬらし、慌てて布を重ねる。いつもなら気になるのは紙の傷みだけのはずなのに、今日は違った。水の残り香が、地下から吹き上がる湿気と混じって、昨夜の暗がりを呼び戻したのである。
昨夜、彼は閉庫前の点検で、古い台帳を一冊なくしていた。
借金と補修費の記録がまとめられた重たい帳簿で、棚の奥から引き抜いた拍子に、床板の隙間へ滑り込んでしまったのだ。追った先は、使われなくなった地下倉庫、そのさらに先の水路だった。
灯りを片手に泥を踏み、鼻をつく黴臭さに顔をしかめながら進んだ先で、彼は台帳より先に、妙なものを見つけた。
泥の中に半分埋もれた、古い面。
額には角を思わせるふくらみがあり、口元には怒っているようにも笑っているようにも見える線が刻まれていた。拾い上げたとき、指先へぬるい熱が走った。離そうとしたのに離れず、目の奥へ何かが入り込んでくるような不快さに、彼はその場で尻もちをついた。
それでも台帳だけは抱えて戻り、寝台へ倒れ込んだ。朝になれば気のせいだと思えるはずだった。
ところが、鏡の前に立ったイルネリオは、思わず息をのんだ。
額の中央、髪の生え際の少し下に、うっすらと影が浮いている。傷でも痣でもない。光の具合で消えるようで消えず、角の根元だけが皮膚の裏に潜っているような奇妙な紋だった。
「……ある朝起きたら、砦の守護鬼になっていた、なんて」
口に出してみると、冗談にもならなかった。
笑い飛ばしたいのに、舌の奥に残る鉄と灰の味が、それを許さない。
昼前、書庫へ補給隊から使いが来た。
備蓄帳の照合が必要だという。呼びに来た兵は眠そうにまぶたをこすり、革帯の締め方もどこか緩んでいた。砦全体がそんな調子だった。王都からの補給は細り、商人は荷を抱えたまま南へ抜ける算段ばかりつけている。見回り兵は夜通しの警戒で足並みが乱れ、城下では、ここがもう長く持たないという噂まで流れていた。
倉庫棟へ入ると、空気は乾いた穀粉と焦げた脂の匂いで重かった。
壁際には破れかけた麻袋、棚には湿気を吸った乾パン、奥では人足が荷車の前で言い争っている。中央で声を飛ばしていたのが、補給隊長のレオニナだった。
「逃げるなら今日の荷下ろしを終えてからにして。いま消えられたら、西門の夜番に回す分が途切れる」
そう言って自分で米袋を肩へ担ぎ、通路を空けさせる。板に炭で書かれた今日の目標が壁に並んでいた。麦、塩、薬草、見回り班、修繕班。字は急いでいても崩れていない。
イルネリオが差し出した帳簿に目を落とした彼女は、ひと息だけ短く吐いた。
「助かる。けど、読む前に何か食べないと倒れそう」
その声は平静だったが、周囲の兵の顔色はもっとひどい。頬がこけ、肩が落ち、空腹と寝不足で目の焦点が定まっていない。イルネリオの鼻に、鍋の底で乾きかけた粥の匂いが刺さった。そこへ薬草棚からこぼれた香りが混じる。すると頭の内側で、不意に組み合わせが見えた。
彼は断りも待たずに炊事場へ回り込んだ。
残り粥に湯を足し、塩をひとつまみ、乾きかけた香草を指で揉んで落とす。火にかけた瞬間、鍋肌から立つ湯気の流れが妙にはっきり見えた。どこで混ぜれば粘りが戻るか、どこで止めれば眠気を曇らせずに済むか、舌ではなく体の奥が知っているようだった。
「イルネリオ、それは?」
背後でレオニナが問いかける。
「捨てるには、まだ早い粥です」
自分でも驚くほど落ち着いた声が出た。
大鍋いっぱいにはならない。木椀にして六つ七つ。それでも、見回り前の兵たちは半信半疑の顔で受け取り、熱さに眉を寄せながら口へ運んだ。
最初に変わったのは姿勢だった。
椀を抱えたまま壁にもたれていた若い兵が、二口、三口と食べたあとで背を離す。隣の兵は重そうだった槍を持ち直し、まぶたをこすっていた男は目を見開いた。
「……あれ、足が軽い」
「さっきまで霞んでたのに、階段の段差が見える」
「おい、気のせいじゃないぞ」
ざわめきが鍋のまわりで膨らむ。
レオニナは自分でもひと匙すくい、黙って飲み込んだ。次の瞬間、彼女の視線が鋭く細くなる。疲れて沈んでいた顔つきに、仕事場へ戻る前の張りが戻った。
「偶然とは言い切れないわね」
そう言って椀を置くと、彼女はイルネリオの腕をつかんだ。
「こっちへ来て。今すぐ」
連れていかれたのは倉庫裏の小さな尋問室だった。
窓は高く、昼でも薄暗い。卓上には使い込まれた燭台が一つ。イルネリオが椅子へ座ると、レオニナは向かいに立ったまま腕を組んだ。
「何を混ぜたの」
「塩と、乾きかけた香草だけです」
「それで夜番の兵の目があんなふうに覚める?」
「……わかりません」
嘘はついていない。わからないことばかりだった。
ただ、わからないまま飲み込ませたことだけは事実である。イルネリオは額に手をやりかけ、途中で止めた。しかし、そのためらいをレオニナは見逃さなかった。
「今、何を隠したの」
低い声で問われ、観念するしかなかった。彼は前髪を上げ、額の紋を見せる。
レオニナの目がわずかに見開く。警戒と計算が、その一瞬で何度も行き来したのがわかった。部屋の空気が張りつめる。
「昨夜、地下へ落ちた帳簿を拾いに行きました。そのとき……妙な面を」
そこまで言ったところで、戸の外から乾いた声がした。
「面じゃないよ。それは印だ」
いつの間にか扉にもたれていたのは、街外れの祠を預かるコンスエラだった。日に焼けた指で戸枠を軽く叩き、彼女はイルネリオの額をまっすぐ見た。
「砦の底に眠っていた守り手の印。ようやく起きたんだね」
尋問室の小窓から差し込む昼の光が、額の影を細く照らした。鉄と灰の味が、また舌の奥に戻ってくる。
イルネリオは、自分の喉がひどく乾いていることに、そのとき初めて気づいた。