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その日の夕方、尋問室の机には、帳簿と木札と冷めた茶が並んでいた。
レオニナは立ったまま紙をめくり、コンスエラは椅子を後ろ脚だけで揺らし、イルネリオは両手を膝の上に置いて座っていた。窓の外では、荷車の車輪が石畳を削る音がする。補給倉から西門へ運ぶはずの麦袋が二つ、途中で消えたという報告まで入っていた。
「昼の粥で兵の足並みがそろったのは見た。でも、あれを毎回やれる保証はない」
レオニナはそう言って帳簿を閉じた。
「保証はありません」
イルネリオは正直に答えた。
「ただ、火加減と匂いの重なり方は、前よりずっとはっきりわかります。昼より夜のほうが空気の味を拾いやすい。三晩だけでいいので、西門の夜番に食べさせてください」
「三晩だけ?」
「だめなら畳みます」
すぐに却下されると思った。だがレオニナは返事を急がず、窓の外を見た。見回り兵が壁にもたれたまま大あくびをし、そのそばで人足が賃金の前借りをめぐって口論している。
彼女は額を指で押さえ、短く息を吐いた。
「午前零時から明け方鐘まで。場所は西門横の空き地。食材は骨付き鳥の端肉、麦、塩、乾燥香草。足りない分は私の名で切る。ただし赤字を増やしたら、鍋ごと没収」
コンスエラが口笛を鳴らす。
「隊長さん、案外やるじゃないか」
「背に腹は代えられないだけ」
言いながらも、レオニナはすでに木札へ必要量を書きつけていた。
夜になると、西門の横は昼より広く見えた。
石壁の影が長く落ち、使われていない荷台の板を借りて組んだ屋台は、近くで見れば頼りない。だが、鍋を据えて火を入れると、その小ささがかえって心強く思えた。人が一人、二人と立ち寄れば、それだけで場所の意味が変わる。
フロイディスが袖をまくり、鍋のふちを布で拭いた。
「診療所の鍋よりは浅いけど、吹きこぼれは見やすいね」
そう言って味見もせず、切った香草を皿へ等分していく。人の顔色を見る手つきのまま、食材にも無駄がない。
その横でグンナルは板札を縄で吊るした。
『つけ払いは三日まで』
「四日目からは笑顔が減るぞ」
商人らしいことを言うくせに、端肉はきっちり一割まけてある。
ニコリナは屋台の前で喉を鳴らし、月に向かって一節だけ歌った。硬かった夜気が、その瞬間だけ少しゆるむ。
「西門の夜更かしさん、腹をあっためたいなら寄っといで。今日だけ、骨付き鳥が鍋の中で機嫌よく泳いでるよ」
「鳥は泳がないだろ」
イルネリオが言うと、ニコリナは肩をすくめた。
「じゃあ沈んでる。どっちでもおいしければ勝ち」
骨付き鳥の塩煮込みに、麦粉を丸めた団子を落とす。
煮え立つ前の白い泡、塩が溶けて角を失う瞬間、香草を入れるタイミング。イルネリオには、その全部が昨日までより近く感じられた。鍋の向こうの石壁から流れてくる冷えまで、舌の裏で測れる。
見回り前の兵たちが最初の客になった。昼に粥を食べた若い兵もいるが、今夜はもっと疑い深い顔をしていた。夜番前に得体の知れないものを口へ入れるのは、誰でも怖い。
「倒れたら隊長に文句言えよ」
レオニナが腕を組んで立つと、兵たちはしぶしぶ椀を受け取った。
ひと口目で、何人かの眉が上がる。
骨から出た旨みが塩に丸く抱かれ、団子が腹へ落ちる。熱いだけの夜食ではない。冷えて縮こまっていた胸のあたりが、内側からゆるむ味だった。
「楯、持ってみろ」
レオニナに言われ、兵の一人が壁へ立てかけていた楯を持ち上げる。昼間なら肩を鳴らしていた重さなのに、男は二度ほど握りを直したあと、目を丸くした。
「なんでだ。腕が上がる」
「眠気が後ろへ引いたみたいだ」
「階段を上る前から息が楽だぞ」
ざわめきが鍋の湯気へ混じる。
そこへ、前線槍隊のカリドウェンが通りかかった。
槍を肩へ引っかけたまま、彼は鍋をのぞき込み、鼻で笑う。
「料理で城壁が守れるなら、鍛錬場は明日から台所になるな」
「食べてから笑ってください」
イルネリオが椀を差し出すと、カリドウェンは受け取った。断ると周りに小言を言われると読んだ顔だった。豪快にすすり、骨をかじり、団子を二つで食い切る。
「で?」とニコリナが身を乗り出す。
「うまい。それは認める」
言いながら彼は鍛錬場の隅に転がっていた訓練用の丸太へ歩いた。いつも四人がかりで運ぶ重いやつだ。片手で押して笑いを取るつもりかと思った次の瞬間、彼は腰を落とし、一息で丸太をごろりと押し返した。
木が石床をこすり、鈍い音が夜に響く。
黙ったのはカリドウェン自身だった。
周りが先に噴き出した。
「おい、顔」
「自分で一番びっくりしてるぞ」
ニコリナが腹を抱えて笑い、フロイディスは鍋杓子を持ったまま肩を震わせ、レオニナは口元だけで笑いをこらえている。カリドウェンは咳払いをひとつして、空の椀を返した。
「……もう一杯だ」
「はい、毎度」
イルネリオが受け取ると、その一言で屋台の空気が変わった。
兵だけではない。修繕帰りの石工、遅番の伝令、子を寝かしつけたあとの母親まで、湯気につられて足を止めた。立場の違う者が同じ鍋をのぞき込み、三日までのつけ払い札を見て笑い、誰かが空いた木箱へ腰を下ろす。
イルネリオは椀をよそいながら、ふと思った。
ここは腹を満たすだけの場所では足りない。
夜の見回り兵と、補給倉の人足と、歌い手と、無口な商人が、無理なく同じ火の前へ立てる場所にしたい。仲良くしろと命じなくても、同じ熱を分け合えば、少しずつ顔を覚える。顔を覚えれば、守る理由は増える。
その考えを言葉にする前に、レオニナが隣へ来た。
「何を見てるの」
「人の並び方を」
イルネリオは答えた。
「ここ、ただの夜食場じゃなくなるかもしれません」
レオニナは列の先を見た。西門の見回り兵と鍛冶場帰りの職人が、同じ木匙で団子の大きさを比べている。
「……そうなったら、少し助かる」
言い方は控えめだったが、声はやわらかかった。
客足が切れたのは、夜半を少し回ってからだった。
鍋底には塩の白い輪が残り、板の上には骨が小さな山を作っている。フロイディスが湯を足してこびりつきを浮かせ、グンナルは売掛を書きつけ、ニコリナは客の置いていった銅貨を鼻歌まじりに数えていた。
屋台を片づけようとして、イルネリオは足裏に妙な振動を感じた。
石ではない。板の下で空気が鳴る、薄い響きだ。
「待ってください」
彼は鍋を脇へ寄せ、床板の端にしゃがみ込んだ。昼よりもはっきり、木の継ぎ目の奥から湿った気配が立っている。まるで地下の冷えが、そこだけ舌へ触れてくるようだった。
シャルヴァが遅れて現れ、工具袋から細い鑿を抜いた。
「夜中に呼び出しておいて、まさか飯の匂いだけってことはないんだろ」
彼は板の端へ刃を差し込み、慎重にこじ開ける。
釘がきしみ、板が一枚、持ち上がった。
その下には、黒い穴が口を開けていた。
石でできた古い階段が、湿った闇のほうへ折れながら続いている。
誰もすぐにはしゃべらなかった。
鍋の残り香の向こうから、地下水の冷たい匂いだけが静かに上がってくる。
コンスエラが、いつの間にか背後に立っていた。
「ほらね」
彼女は暗がりをのぞき込み、口の端を上げる。
「砦の底は、まだ起ききってない」
真夜中の屋台の明かりが、階段の一段目だけを薄く照らした。