テラーノベル
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年貢米の搬出期限を、明日に控えた朝だった。
あの最大増水から、十日あまりが過ぎていた。
その間、ムエイルは日ごとの病斑率と刈り取り見込みを更新し、教会へ期限内に提出した。年貢米の最低量を確保できる見込みが示されたことで、保留されていた一斉焼却命令は正式に撤回された。
辺境の水田には、鎌の音が絶え間なく響いていた。
全部の田は救えなかった。
あの豪雨で救援を断念した低地には、白く枯れた株がまだ残っている。そこを通るたび、アキムの胸には鈍い痛みが戻った。
それでも、救えた田では黄金色の穂が次々と刈り取られていた。
「集計、出ました」
ムエイルが倉庫前の大板へ数字を書き込む。
年貢として搬出する規定量。
村で冬を越すための備蓄。
翌春に播く種籾。
三本の線が、ぎりぎり必要量を越えた。
「余裕はほとんどありません。でも、追加徴収を受ける理由もありません」
ムエイルは長い計算表を胸に抱き、満足そうに頷いた。
昼前、領都から来た徴収官が倉庫を検分した。袋の封を切り、籾の乾き具合まで確かめ、最後に搬出台帳へ印を押す。
「規定量を確認した。冬越し備蓄への追加徴収は行わない」
その一言で、倉庫の外にいた人々の肩から力が抜けた。
救えなかった低地の農家にも、種籾と冬用の米が回る。失った土地が戻るわけではない。それでも来春まで生き延び、もう一度植えられる。
アキムは、救えなかったものと救えたものの境目を見つめた。微生物学の知識は奇跡ではなかった。比較して、失敗して、誰かの技術や記録を借りて、ようやく届く範囲が少し広がっただけだ。
だからこそ、その少しが嬉しかった。
農民たちから、遅れて歓声が上がる。
アキムは笑った。声まで出た。
「よかった……本当に、よかった」
目の奥が熱くなる。
失った田を思えば、手放しでは喜べない。それでも救えた米まで悲しみで覆うのは違う気がした。
喜びも、悔しさも、両方本物だった。
午後、ミルヴァの工房には農家と職人が詰めかけていた。
「難しい部品は禁止。壊れたら村で直せないからね」
彼女は簡易培養器を机へ並べ、木枠とガラス筒、温度を見る色石だけで組み直した型を示した。誘蛾灯の改造部品も、鍛冶屋が同じ寸法で作れるよう型板にしてある。
隣ではムエイルが、発酵液の作り方、水温、散布量、改造誘蛾灯の使い方、限定的な浄化術を一枚ずつ整理していた。
#異世界転移
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フユめん
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「成功例だけでは駄目です。失敗条件も書きます」
「そこまで書くのか?」
「次の人が同じ失敗をしないための記録です」
ムエイルは当然のように答えた。
夕刻、教会の鐘が鳴った。
アンは礼拝堂の前で、農民と兵士を見渡した。
「私は、清浄とは何も存在しないことだと信じていました」
静かな声だった。
「けれど、土の中にも、水の中にも、目に見えない命があります。そのすべてを消せば、守るべき命まで弱くなることを、私たちは見ました」
彼女は胸元の聖印を握る。
「信仰を捨てるのではありません。私は、清浄とは害を抑え、命が続く秩序を守ることだと考えます」
ざわめきの中で、老農夫がゆっくり頭を下げた。
夜には収穫祝いが始まった。
「アキムを胴上げしろ!」
誰かが叫ぶと、ディーヴオンが即座に首を振った。
「一人じゃ足りん! 農民も、兵も、職人も、記録係も全員だ!」
「全員を胴上げしたら夜が明けるぞ!」
「なら夜明けまでやれ!」
笑い声が広がった。
炊き出しの大鍋から、白い湯気が立った。新米はまだ十分に乾いていないため、古米に少しだけ新米を混ぜた粥だった。それでも匙を入れるたび、米の甘い匂いが広がる。
ディーヴオンは最初の椀を水門で負傷した兵へ渡し、次を低地の田を失った老農夫へ渡した。
「祝いは、残った者だけでするもんじゃない」
老農夫は黙って受け取り、やがて小さく笑った。
アキムも笑った。
自分だけの成功ではない。
知識だけでも救えなかった。ミルヴァが形にし、ムエイルが数字にし、ディーヴオンが人を動かし、アンが人々の信じる言葉へ橋を架けた。
翌日の夕刻。
年貢米を積んだ荷車を王都へ向けて見送ったあと、アキムは一人で、最初に目覚めた水田へ向かった。
案山子は、あの日と同じ場所に立っていた。
手には、銀色を失った灰色の帽子がある。
「返すよ」
案山子の頭へ被せた。
何も起きなかった。
もう銀線も見えない。問いかける声も聞こえない。
炊きたての米の匂いが風に乗ってきた。
前世の祖父母の田を思い出す。
朝露。泥の冷たさ。祖父の背中。祖母が握ってくれた塩むすび。
帰れないのだと思うと、やはり寂しかった。
帽子を使い切ったのは自分だ。
後悔がまったくないと言えば嘘になる。
アキムは目を閉じ、その寂しさをそのまま受け入れた。
すると遠くから、聞き慣れた声が飛んできた。
「アキム!」
振り返ると、アンたちが畦道を歩いてくる。
ミルヴァは工具箱を抱え、ムエイルはまた分厚い記録束を持ち、ディーヴオンは収穫袋を肩に載せていた。
前世の水田と同じくらい、その光景も鮮明に胸へ残った。
アンが隣まで来て、水田を眺める。
「これから、どこへ行きたい?」
アキムは少し考えた。
かつて帽子に問われた言葉とは違う。
今度は、自分で選べる問いだった。
夕日が、水面でまぶしく揺れている。
アキムは笑った。
「うん。思い出の場所で、やっと分かった」
仲間たちを見る。
「俺はここへ来たかったんだ」
コメント
1件
第12話、読み終わったよ……! 「よかった……本当に、よかった」ってアキムの言葉がそのまま自分の気持ちだったわ。 低地の田を失った悲しみと、救えた命の重み、両方ちゃんと抱えて前に進むラストが沁みた。 案山子に帽子を返すシーン、すごく切なかったけど、仲間が迎えに来てくれたところでじんときた。 「ここへ来たかったんだ」って自分で答えを出せたのが、本当の旅の始まりだね。 空乃さん、素敵な物語をありがとう! 次も楽しみにしてる🔥