テラーノベル
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翌朝、海斗はいつもより少し遅めに目覚めた。
どうやら一度も起きずに朝まで熟睡していたようだ。
ベッドに横たわったままぼんやり窓の方を見ると、カーテン越しにやわらかな光が注ぎ込んでいる。
溜まっていた疲れはすっかり解消されていた。
そして頭の中には昨夜の光景が蘇ってくる。
仕事ばかりの毎日で、ここ最近人間らしい生活を忘れていたかもしれない。
昨夜のようなほんのちょっとした瞬間で、人間らしさを取り戻せるのだなと思う。
そんなことを考えていると携帯が鳴った。マネージャーからだ。
あと三十分で迎えに来るらしい。
海斗は慌ててベッドから起き上がると、すぐにバスルームへ向かいシャワーを浴びた。
洗いたてのジーンズといつもの黒Tシャツに着替え、マンションの下に降りて行く。
すると既にマネージャーの車が停まっていた。
海斗は基本仕事場へは自分で行くことが多いが、
マネージャーの家が近いこともあり、たまにこうして拾ってもらう。
海斗が車に乗り込むと、マネージャーの高村が言った。
「おはよう、今日は顔色がいいな」
「そう?」
「昨日の帰り際はヨレヨレのぼろ雑巾みたいだったから少し心配してたよ」
「ハハッ。そんなにひどかったか? 昨夜は満月だったから充電したんだよ」
「なんだそれ」
高村は不思議な顔をして車を発進させた。
その時、車のラジオからは「Moon River」の曲が流れてきた。
その頃美月はアパートで遅めの朝食を食べていた。
久しぶりにパンケーキを焼いてみた。
パンケーキにはバターをたっぷり載せるのが好きだ。
そしてミルクティーを入れ、ラジオをつけて小さなダイニングテーブルの椅子に座る。
ラジオをつけた瞬間「Moon River」が流れ始める。
(つけた瞬間この曲が流れるなんてラッキー!)
そう思いながら、パンケーキを頬張る
美月はこの曲が大好きだった。
今日の仕事は午後一時からの教室担当だった。
美月の前職は銀行員だったが、二年前の離婚を機に退職した。
職場結婚だったため、元夫は違う支店にいたが会社は同じだ。
そんな時、趣味で通っていた彫金教室からスタッフにならないかと誘われた。
環境を変えたかった美月はすぐに銀行を退職した。
そして今はスタッフ兼講師として彫金教室で働いている。
自分が生徒で通っていた時とスタッフ側になってみるのとでは、見える世界が全く違う。
それに気づいたのはここ最近だ。
今売り出し中のデザイナーのミキ先生が、かなりの気分屋だというのを知ったもスタッフになってからだったし、
ミキ先生の生活がかなりだらしないという事を知ったのもそうだ。
若くて美人の先生なので憧れる生徒は多い。自分もそうだった。
でもスタッフとして中に入ってみたら、その憧れは無残なほどに打ち砕かれる。
まあ現実を直視する事も大事だ。
こういう世界は、嘘と騙しと誇張で成り立っているのかもしれないと割り切ることにしている。
自分ももう夢ばかりを見る年齢でもないし、それくらいがちょうどいいのかもしれない。
一方海斗は都内のビルの一室にいた。
次のライブの打ち合わせと、今回参加してもらうストリングスチームのメンバーとの顔合わせの為だ。
今度のライブはいつもとは違う演出をする予定だ。
今日はそのライブのテーマを決める重要なミーティングだった。
「海斗さんはこんなイメージっていうものがありますか?」
と、プロデューサーの小野が振ってくる。
「今回、せっかくのストリングスチームとのコラボですから、これだ! というテーマがあったら何でも言ってみて下さい」
と、小野は付け加える。
秋のライブのイメージとして、海斗は昨夜思いついた事を話してみる事にした。
「月をイメージしたライブにしたいなと思うのですが、どうでしょうか?」
「なるほど…それはいいアイデアですね。秋と言えば中秋の名月ですからね!」
小野も乗り気だ。
「曲も、バラード系の曲を増やしたらいいかもね」
ギターの中島がそう提案する。
「俺たちのファンは昔から応援してくれているファンが多いから同じ世代も多いしね。それはいいかも!」
ドラムの吉田も同意した。すると小野が再び言った。
「少し大人向けのしっとりしたライブっていうのはどうですか?」
小野が提案したイメージは、いつもの激しいライブではなく、
バラードやラブソングを中心とした少し大人向けのしっとりしたライブだ。
ちょうどバイオリンやチェロなどのストリングスチームも参加するので、
ドラマティックなアレンジも加えられる。
その後スタッフ全員一致でその案に決まり、秋のライブはその方向性で進む事になった。
ミーティングが終わると、すぐにマネージャーの高村が傍に来てニヤニヤしながら言った。
「冴えてるね。何かいい事あった?」
「何もないっすよ」
海斗はなるべく平静を装ってそう答える。
「ま、いっか! それより今日この後はオフだからゆっくり身体を休めろよ」
そう言い残すと、高村は会議室へ戻って行った。
昼間のこんな明るい時間に解放されたのは久しぶりだった。
「本屋にでも寄って行くか」
海斗はそう思うと、駅前の大きな書店へ向かう。
実は海斗は読書が趣味だった。
曲作りでは作詞もするので、語彙力を鍛える為にあえて普段から活字に触れるようにしている。
だからこうした空き時間が出来ると小まめに書店へ足を運んでいた。
書店へ着いた海斗はエントランスを潜り抜け店へ入って行く。
すると不思議な事に海斗が店に入った瞬間、再び「Moon River」の曲が流れ始めた。
コメント
1件
ギャハハハ🤣ヨレヨレのボロ雑巾みたいって🤣🤣🤣 Moon River♪2人を繋げる曲なのかな🩷🩷🩷