「よし! ここまで詰めればいけるだろう」
「ありがとうございます!」
椿が勢いよく頭を下げたから、三つ編みが垂らしたロープのようにぷらぷらと揺れた。
フードロス企画の立ち上げから一か月。
十二月に入って、札幌の最高気温は連日一桁となり、雪がちらつく日もある。
俺と椿の関係は相変わらず曖昧なままだが、企画は順調に進んで行った。
「明日の朝一で社長の承認を貰うから、午後一には社内メールで告知できるように準備しておいて」
「はい!」
「社食課にも手順の最終確認をしておいて」
「はい!!」
「じゃ、帰るか」
「はいっ!!」
「……」
椿の覇気のある返事に、ふむ、と少しだけ考えを巡らせ、彼女の耳元に口を寄せた。
「俺と付き合って」
「は――っ!」
椿が開けた口から小さく息を吸って、動きを止めた。
「ザンネン。元気よく『はい』って言うかと思ったのに」
そう言って、姿勢を戻す。
去り際に、彼女の耳朶を食んで。
「――――っっっ!!」
真っ赤な顔で周囲を見回し、椿がしゃがみこんだ。
やり過ぎたか?
とうに終業時間は過ぎて、課には俺と椿だけ。
わかっていてのことだったが、彼女の焦りは半端ない。
この期に及んで、自分と噂になったら俺の沽券にかかわるとか考えてんだろうな。
「腹、減ったな」
そう呟くと、椿はパッと表情を明るくした。
「今日は私にご馳走させてください!」
「はっ!?」
「日頃、お世話になっているお礼というほどではないのですが、その、感謝の意を表しまして、はい」
意外な申し出だった。
一緒に暮らす前、俺の誘いをあっけらかんと拒み続けてきた椿からの誘い。
一緒に暮らし始めても、絵に描いたような倹約家の彼女は、休日でも外食をしたがらず、本当にごくたまに近所の洋食屋に出かける程度。
素直に嬉しい。
「サンキュ。嬉しいよ」
俺は喜びをそのまま口にした。
「ご馳走とかお礼とかはいいからさ、飯食いに行こう」
「いえっ! それでは私の気が治まりません」
この流れでキッパリ断れるのは、彼女の良い所でもあり、残念なところでもある。
まぁ、もう、慣れたが。
「もちろん! たった一度の食事程度で返せる御恩だとは思ってはおりません。が、大変心苦しくはありますが、今の私は彪さんのご好意によって日々の生活を立てている身でして。彪さんのようにホテルディナーとまではいきませんが、私なりの精一杯で――」
「――はい、ストップー」
俺は遠慮なしに彼女の口を手で押さえた。
彼女が、ふぐっと言葉通り鼻が潰れたように喉を鳴らす。
「ね、椿。何度も言うけど、俺が椿を囲ってるのは綺麗なご好意じゃなく、ドロッドロの下心からだし、お礼って言うなら飯より椿をいただきたいし? それでも礼がしたいって言うなら、椿からのキスで十分なんだけど?」
椿に触れている掌が熱くなる。
彼女が真っ赤な顔で、眼鏡の奥の碧い瞳を潤ませている。
最近の俺は、自分でもやり過ぎだと思うほどあからさまに椿を口説いている。
約束通り性的には触れないが、軽いスキンシップやストレートな言葉で気持ちを伝えている。
結婚云々については考えている最中だが、そもそも椿が俺を好きだと認めてくれないことには、現時点で考えること自体が無駄だと結論付けた。
だが、やり過ぎは逆効果だ。
椿はキャパオーバーになるとパニックに陥る。
さすがに以前のような呼吸困難にはならないが、思考回路がとんでもなく絡まってしまうのだ。
俺は椿の口から手を離すと、立ち上がった。
「ラーメン食いたいな」
鞄を持ち、椅子を机の定位置に押し込む。
ポカンと唇を半開きにして俺を見上げる椿に、微笑む。
「ご馳走してくれるんだろ?」
「はいっ!」と、彼女は弾かれたように立ち上がった。
いい返事だ。
そこで、はたと気が付いた。
好きな女をラーメンに誘うのはいかがなもんだ?
ラーメンが好きで、最近食べていないから食べたいのも確かだが、いくら低価格なものをと思ったからと言って、ラーメンは女が嫌がるのではないだろうか。
少なくとも、俺が付き合った女は嫌がった。
だが、椿は俺の知っている女とは規格が違う。
とはいえ、女は女だ。
「あ、けど、麺類ってならパスタでも――」
言いかけて思い出した。
昨日の晩飯がパスタだった。
帰りが遅くなったから、すぐに出来るものと言ってペペロンチーノを作ってくれた。
「――椿は麺類なら何が好き?」
言ってから、しまったと思う。
二日続けて麺になること自体を避けなければならないとは考えが及ばなかった。
椿が相手だと、どうも俺は高校生男子並みに気が利かなくなる。
「ラーメンと聞いてしまうと、ラーメンですね! お店の味は自分では作れませんから。あ、ひょ――部長は味噌派ですか? 醤油派ですか?」
俺に気を遣っているとはとても思えない意気揚々とした問いかけに、本当にラーメンが好きなんだろうと思った。
「あ! 塩や豚骨という選択肢もありますよね! もしくは辛い系? そういえば、彪さんは辛い物はお好きですか? 自分があまり得意ではないからと、お聞きしていませんでした。もしお好きなら――」
「――好きだよ」
腰を屈めて彼女の耳元で囁くと、興奮気味にまくし立てていた言葉が止んだ。
「敢えてリクエストはしないけど、椿が作ってくれるものなら、好きだよ」
我ながらクサすぎる。
が、椿にはこのくらいがちょうどいいと学習した。
事実、彼女の頬がみるみる赤く染まる。
本当に、可愛くてしょうがない。
自分にSっ気があるのではと気づいたのは、こうして椿の困った表情《かお》を見ると興奮を覚えたから。
もっと、困ればいい。
もっと、俺を意識したらいい。
俺は耳元で囁き続ける。
「椿は何味が好き?」
「み、味噌……です」
「俺も好きだよ。大好きだ」
彼女がギュッと目を閉じた。
恥ずかしくて仕方がないと言ったところだろう。
「こんなに間近で目を閉じたら、キスをねだっているんだと思うよ?」
瞬間、彼女の目がカッと見開く。
そんなに全力で拒否らなくても……。
仕掛けておきながらがっかりする。
俺は腰を伸ばし、ふっと肩を上下させた。
「じゃ、味噌ラーメンが美味い店に行こうか」
「は、はい! ――わっ!」
焦っていたのか、引き出しからバッグを取り出そうとしてキャスター躓き、バランスを崩した椿の肩を抱きとめた。
「大丈夫か?」
「はい。あのっ、あ、ありがとうございます……」
最近の椿は、『すみません』の代わりに『ありがとう』と言うようになった。
いい変化だ。
ついでに、肩を抱かれたくらいで顔を赤らめるほど俺を意識しているのなら、そのまま俺を受け入れてくれたらいいと思う。
最寄り駅前のラーメン屋は、店舗自体が古いせいもあって、入るなり油の匂いがした。
俺は気にしないが、やはり女と来る場所ではなかったかと心配になったが、椿はやはり規格外。
強面の店主に物怖じせず、お勧めの味を聞いた椿は、「味噌だな」と言われて安心したように笑った。
味噌と味噌大盛り、餃子を注文した。
餃子は、椿が作る方が美味かった。
湯気で曇った眼鏡を外し、大口を開けて麺をすする椿を見て可愛いと思った自分に呆れた。
溺れすぎだろ……。
だが、本当に可愛くてしょうがないのだ。
何をするにも一生懸命で、自分のことはそっちのけで他人のことばかり気遣って、いつも全力で俺を尊敬していると褒め称えてくれる。なのに、俺が褒めると全力で否定する。
自己評価が低くて、寂しがり屋なのに、強がってばかりの椿を堕とすには、もう少し時間がかかりそうだ。
ま、ゆっくりでいいさ。
絶対、逃がさないから――。
だが、俺の気持ちとは裏腹に、まさかの急展開が訪れた。