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#大人ロマンス
桃下結衣
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兄は何か言いたげな顔をしたまま、口を閉ざしている。
この空気に似つかわしくないポップな曲が、やけに耳に触る。私はボリュームのダイヤルに手を伸ばし、指先でつまんだそれを回して音を絞った。
「俺に会う覚悟で来てる? 妹をダブル不倫に引きずり込んだ謝罪でもするつもりか?」
「謝罪? そうじゃない。そんなんじゃなくて。彼は、私の人生に関わってる者の責任として――」
「分かってるよ。……冗談だ。だけど俺は会わない。どんな顔して会えばいいんだよ。妻子のいる相手に『妹を宜しく頼みます』って言えばいいのか? ……普通、有り得ないだろ」
吐き捨てるように言って、兄は苦笑いを浮かべる。
素っ気なくも、どこか困惑したような兄の表情を見て、罪悪感が胸を刺す。
「……」
私は喉まで上がった言葉を飲み込んで、夢から覚めたような顔をして唇を引き結んだ。
私は何をしようと……
家族に不倫相手を紹介するなんて……。
「……そうだよね。有り得ないよね、普通は。色んなことがあり過ぎて……私、頭ん中めちゃくちゃだよね」
ばつが悪そうな顔をして走らせた声を短く切り、口もとには自嘲的な笑みを貼り付ける。
「……おまえの彼、本当に家族がいるのか?」
長い林を抜け、民家の明かりがポツリポツリと見える所まで来た頃、口数が少なくなっていた兄が不意に言葉を落とした。
「え……?」
私はその言葉の意味が分からず、キョトンとした顔で兄を見る。
「あ……いや、おまえから聞く相手の器量とか、行動とか、言葉とか……同じ男として腑に落ちないというか、信じられないというか……違和感があって。仕事してて家庭を持っていて、そんな余裕があるものなのか? って、疑問に思ってさ」
「……何が言いたいの?」
「だからさ、本当は家族なんていないんじゃないかと……いや、これは根拠のない俺の憶測だけどな。何となくってやつだよ」
兄は笑い飛ばすように言って、駅が正面に見える通りに入ろうと右にウインカーを点滅させる。
――本当は、今泉さんに家族がいない?
そんな、まさか……
確かに、いつも私が一方的に夫婦間のことまで何でもペラペラと話してるだけで、今泉さん自ら家族の話をしてくれたことなんて一度もない。
二人の息子さんのうち一人は食品関係の会社に勤めてて、もう一人は山梨の大学に受かって寮生活を始めるから、ついこの間、家電を揃えるのに今泉さんも買い物に付き合って……
私も息子さんたちの話は気兼ねなく聞ける。今泉さんはそれに答える。
それ以外は……
本当に、私は彼のことを知らない。奥さんのことは何も知らない。
だけど……
「何のために嘘をつく必要があるの? 家族がいることを知ったのは、出会って初めの頃よ? ……やめてよ。そんなこと、憶測で軽々しく口にしないでっ」
あまりに突拍子もない兄の言葉に戸惑いながら、不機嫌そうに眉間に縦ジワを刻む。
「怒るなよ。だから、ただの憶測だって言ったのに。それに、俺には不倫する男の気持ちなんて分からんし。っていうか、家庭を持つ男の気持ちもまだ知らないしな」
何の悪気もない調子で冗談めかして言う兄。
車は踏切を越え、木造の小さな駅を目の前にしてスピードを緩めた。
数台が横並びに駐車できるスペースの左端に見えるのは、何度も助手席に乗ったことのある彼の車。
込み上げる嬉しさと、そして抱き始めたばかりの複雑な感情。
今泉さん……
街灯に照らされる彼の車を見つめ、小さな吐息を落とした。
「あ、ここで降りるよ。ありがとう、送ってくれて」
今泉さんの車との距離が二十メートルほどになったところで兄に声を掛け、足もとに置いていた荷物を持ち上げた。
「ああ、気を付けて帰るんだぞ。って言っても、気を付けて欲しいのは運転手だけどな」
兄はゆっくりと駐車場の後方の端に車を止め、左斜め前に見える今泉さんの車の後部に目を向けた。
「大丈夫、彼はいつも安全運転だから。出張で長距離運転にも慣れてるし」
「いくら長距離運転に慣れてても、タヌキやイノシシが飛び出してくる道の運転には慣れてないだろ?」
「んー、どうだろう。彼も田舎に住んでた人だから、イノシシくらいじゃ怯まないかもよ」
小さなロータリーに沿ってぽつりぽつりと並ぶ街灯の光が、彼の車をぼんやりと寂しげに映し出している。
「なるほど、イノシシくらいじゃ驚かないか。でも、さすがにクマは焦るだろ。俺も焦るけどな」
冗談を言う兄は闇の中へ視線を辿らせ、ここからでは運転席など見えるはずもないのに目を凝らしている。
そんなに気になるなら、せっかくだから彼に会っていけば? と、もう一度言いたくなるけれど……
兄の頑固な性格だ。『だから、会ってどうすんだよっ』と、不愛想にかわされるのが目に見えている。
「じゃあ、行くね。次に戻れる日が決まったら、お母さんに知らせる前にお兄ちゃんに連絡する。その時にお母さんの様子を教えてね」
兄の視線に気づかぬふりをして、ドアに手を掛けた。
「ああ、大丈夫だ。俺がちゃんと母さんを説得するから。おまえも仕事頑張れよ。それと……各種ゴタゴタもな。俺は傍にいてやれないし、そもそも男女のややこしいことに関しては、兄ちゃんじゃ役に立てないだろうけどな」
兄は気まずそうに口をもごつかせた。
「お兄ちゃん、なに一人でブツブツ言ってんの?」
その顔を覗き込み、私は思わず「ぷっ」と吹き出してしまった。
「え、いや……とにかく頑張れっ」
兄は照れ笑いをして、私を勇気づけるように背中をポンッと軽く押した。
「うん、お兄ちゃんも頑張ってね」
私は顔一面に笑みを浮かべた後、深い闇夜に足を踏み入れ、彼のもとへと駆け出した。
町の周辺を囲む樹木が夜風に吹かれ、星が瞬く藍色の夜空にサワサワと歌声を響かせる。
私は白い息を吐き上げ、前回来た時には砂利道だった舗装したばかりの駐車場に、ブーツの踵の音を刻みながら彼の車に近づいた。
「お帰り、亜紀」
逸る気持ちでドアを開けた瞬間、彼の方から声を掛けた。
正面に浮かぶ月の薄明かりに照らされながら、今泉さんは優しい笑みを向けてくれている。
「今泉さん……ただいま」
会いたかった彼の姿。
少しはにかんで、満面の笑みを返した。
「お兄さんと色々話せたか?」
彼はそう言って、兄を気にするように視線を後方へ伸ばした。
「うん、車の中でもたくさん話せたよ。ごめんね、こんな寂しくて退屈な場所で待たせちゃって」
彼の穏やかな横顔を見つめていると、今日一日で溜め込んだ緊張が解けていくような気がした。
「全く寂しい場所なんかじゃないぞ? 月は大きく明るく綺麗に見えるし、星は空一杯に広がってる。さっき外に出てみたら、冬の大三角形と大六角形が綺麗に見えた。シリウスの明るさが他とは比べ物にならない。空気も美味しいし、退屈するどころか満喫してたよ」
彼は目を輝かせ、明るく声を弾ませた。
「あっ、今泉さんの瞳の中にシリウスが見える。ベテルギウスとプロキオンも。眺めすぎて取り込んじゃったのね。大三角形を」
彼が天体観察に胸を躍らせる少年のように見えてしまって、悪戯気にククッと喉を鳴らす。
「おっ、本当か? 瞳の中に大三角形を宿してるなんて、カッコイイじゃないか。二十個しかない一等星のうち、三つを持ってるなんて。少女漫画のヒロインも羨ましがるな」
「えー、羨ましがらないんじゃないかなぁ。目の中が三角なんておかしいもん。キラキラしたヒロインの瞳の形は、昔から星型が定番じゃない?」
「ああ……そうですか。亜紀ちゃん冷たいなぁ。亜紀ちゃんに会いたくて会いたくて、ここまで迎えに来てあげたのに」
大きな溜め息をついた彼は拗ねたように言って、車を出そうとギアに手を掛けた。
「やだ、冗談だよ。……うん、来てくれて凄く嬉しかった。本当に嬉しいよ。……あ、途中でもっと星が綺麗に見える丘があるの。ドライブがてら少し寄ってみる? 今泉さんに話したいことがたくさんあるし」
彼の横顔を見つめ、はしゃいだ声で言った。
「……そうだね。でもその前に、ちゃんと挨拶をしないとね」
彼はサイドミラーを見つめ、静かな声を漏らす。
「え……挨拶?」
私は意味不明な彼の言葉にきょとんとして、つられるように視線をサイドミラーへ移した。
……えっ、なんで!?
振り向いた視線の先には、運転席に近づく兄の姿が見えた。
「お兄ちゃん!?」
どうしてっ。今泉さんとは会いたくないって言ってたのに!
まさか……
妹の不倫相手に、やっぱり文句を言ってやろうと思ったの!?
私は目を見開き、固唾を呑んだ。
コメント
1件
わっ、まさかの兄登場!?!?😳💦 「会いたくない」って言ってたのに、このタイミングで挨拶しに来るって…めっちゃ胸熱すぎる展開すぎる!!🔥 星の話で盛り上がる今泉さんと亜紀ちゃんの甘いやりとりにニヤニヤしてたら、ラストで心臓止まるかと思ったよ💀笑 家族に不倫相手を紹介するって、そういうリアルな重さがこの物語の魅力だなって改めて思った…!次どうなるの!?もう気になりすぎて今夜眠れないかも😭💕