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#大人ロマンス
桃下結衣
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今泉さんは運転席側に映る兄の姿を見て一礼すると、車から降りようとドアに手を掛ける。
すると、それに気づいた兄は首を横に振り、「ここを開けて」と合図するかのように、ガラスを『コンコン』と二回ノックした。
その意を察した彼はドアから手を放し、パワーウィンドウのスイッチを押す。
今泉さんと向かい合う兄は少し腰を屈め、ガラスがゆっくりと下がっていくのを硬い表情で待っている。
兄の顔を見つめ不安が増していくばかりの私は、膝の上で手を握り込み息を吞んだ。
「こんばんは。初めまして。亜紀の兄の、神野啓太と言います」
「こんばんは、初めまして。今泉隆史です」
重なる二人の視線。
数十分前には、「今泉さんに会って」と自ら兄に大胆な申し入れをしておきながら、いざその異様な光景を目の当たりにすると、酷い緊張感に襲われて目が眩みそうになる。
「お、お兄ちゃんどうしたの? 私、車の中に何か忘れ物してたっけ?」
焦燥感に駆られて居ても立ってもいられなくなり、思わず二人の間に割り込むように声を走らせた。
「……いや、そうじゃない。妹がお世話になってる彼に、兄として一言挨拶をしておかなきゃいけないと思って」
「えっ……」
「……今泉さん。あなたにこんなことを言うのは、非常識で迷惑なことだと理解しながらも、敢えて言います。ここから離れることのできない俺の代わりに。……俺たち家族の代わりに、傍で妹を支えてやって下さい。……お願いします」
兄は彼の目を真っ直ぐに見て、両腕を体の横につけ、深々と頭を下げる。
「お兄ちゃん……」
思ってもみなかった。……いや、思い浮かべることすら許されないことだと諦めていた、今泉さんの存在を肯定する兄の言葉。
当然、兄が心から私達の関係を認めてくれているはずはない。
本来なら、「お前達は何をしてるんだ! 妹から手を引け!」と、家族として罵声の一つも浴びせるのが普通だろう。
それなのに、兄として湧き起こる怒りや迷いを抑え込み、私の気持ちを守ろうとしてくれる兄の優しさが心に沁みて、胸が熱くなる。
「はい、勿論です。お兄さんのお気持ち、確かにお受け取り致しました」
今泉さんは丁寧な口調で言って、真剣な眼差しを向ける兄に再び一礼をした。
今泉さんと短い挨拶を交わし、念を押すようにもう一礼して、この場から立ち去っていく兄。
「……妹思いの、いい兄さんだな。さすが、亜紀と血を分けた兄妹だ」
「……うん。昔から瞬間的に頭に血が上る人だけど、結局は妹に甘いの。本当はね、ついさっきまで会いたくないって言ってたんだよ」
暗闇に消えていく兄の背中を二人で見送りながら、心が救われたような気持ちになり、自然と穏やかな笑みが零れた。
「俺に会いたくないのは当然だ。あんな言葉、状況はどうであれ普通は妹の不倫相手に言えないよ。……凄い兄さんだな。実は俺、一発二発殴られる覚悟でここに来たんだ」
「ええっ!? 殴られる覚悟って……嘘でしょう?」
平然とした彼の横顔を見つめ、驚愕の声を上げた。
「嘘って何だよ。亜紀が兄さんに俺の存在を話したと聞いたから、当然、隠れてたら卑怯だと思って。どんな状況になっても最後まで亜紀を見放したりしない。そう決めた、俺の責任と覚悟だ」
「責任と覚悟って……驚きなのは今泉さんも同じだよ。責任と人情の域を超してる。普通そんな言葉、家庭がある人は言えないよ? 本当に殴られて傷ができちゃったらどうするの? 帰ってから奥さんにどう説明したら……」
何の迷いも感じられない彼の表情を見つめ、突然、私は言葉を飲み込んだ。
『本当に家庭のある男なのか?』
ふと頭に浮かんだのは、車内で兄が口にした意味ありげな言葉。
……そんなことあるはずない。
柳さんだって会話の中で、今泉さんには妻子がいるようなニュアンスのことを口にしていた。
大体、今泉さんがそんな嘘をつく必要なんてないもの。私に嫉妬心と苦しみを抱かせるだけで、メリットがあるようには思えない。
「……」
「……ん? どうした? 急に黙りこくって。奥さんが何だって?」
兄の車のライトが消えていくのを見送った後、今泉さんは私に顔を向け、口元に笑みを纏う。
どんなに頭の中で否定を繰り返しても、兄の言葉が頭から離れてくれない。
心がどうしようもなくモヤモヤする。
「今日は日曜日なのに、こんな時間に外出して大丈夫なのかなって心配になって……奥さんは何も言わないの? 柳さんのオフィスに泊まったあの夜から、いっぱい傍にいて貰ってるから気になって……」
背中を押されるように、わだかまりは言葉の塊となり、胸に留めることができずに滑り落ちた。
「大丈夫だ。亜紀がそんなことを心配しなくていい」
彼はさらりとそう言って、穏やかな表情を浮かべたままゆっくりと車を走らせる。
「心配しなくていいって、そう言われても気になっちゃうよ。……何て言って出て来たの?」
「明日からの出張の準備があるから会社に行くって。出張前は色々と資料作りして行かなきゃいけないから。それに休日に会社に籠ってること結構あるんだぞ? 今までは亜紀がご主人といたから連絡しなかっただけで」
「……そうなんだ。知らなかった。じゃあ、今まで一度も怪しまれたことはないの? その……ホテルの匂いとか、石鹸の香りとか、後は……」
「俺、パンツ裏返しで帰るようなドジしないぞ?」
何かに追われるように言葉を並べようとする私を横目で見て、ハンドルを握る彼がククッと喉を鳴らす。
「パンツ!? ……いや、そういうことじゃなくってね」
お付き合いを始めて半年以上経つのに、今になって『本当に奥さんがいるの?』だなんて、そんなすっとぼけた質問を真顔で言えるわけがない。
「……何かお兄さんに聞かれたの?」
「えっ……お兄ちゃんに? どうして?」
「だって、今までそんなことを聞かなかっただろ? 本当は何が聞きたいの? 隠したって無駄だよ。亜紀はその手の嘘が下手くそなんだから」
目を白黒させる私をチラリと見て、目尻を下げる。
本当は何が聞きたいって……
「……奥さんって、何してる人? 今まで一度も聞いたことなかったから……あ、でもね、お互い危険だと判断したことは話さなくていいルールだから、今泉さんが話したくないなら話さなくても……」
「飲食店の経営者」
「へ? ……飲食店の……」
「そんなに気になるなら会ってみたい? 彼女に」
我が耳を疑う過激な発言。
私は言葉の意味が全く理解できず、ポカンとしたまま静止する。
しかし彼は躊躇のない様子で、まるで星でも眺めているかのように穏やかな顔をフロントガラスに向けている。
会ってみたい? って……まさか、奥さんに私を紹介するって意味!?
友人だとかなんとか、嘘の自己紹介を用意して!? ……いやいや、それはまさかにも程がある。
じゃあ、ストーキングみたいに奥さんの姿を遠くから見てもいいってこと?
飲食店の経営者……とすれば、お客さんのフリをしてテーブルからその姿を覗き見るとか?
何故か咄嗟に頭に思い浮かんだのは、個人経営の洒落た小さなレストラン。
日の光が差す明るい雰囲気のその店には、膝下丈の黒のタイトスカートに真っ白なブラウス、胸にはオーナーのネームプレートを付けた女性がレジの前辺りに立っていて……
いつか何かの映像で見たような情景は思い浮かぶ。けれども、その女性の首から上がどうしても思い浮かばない。
今まで、今泉さんの奥さんの姿を想像したことは何度もある。
太ってるの? 痩せてるの? どんな声をしていて、どんな服を着て、どんな仕草をする人なの?
――私が知り得ない、彼の「夫」と「父」の二つの顔を知る女性。
きっと奥さんの情報を何も知らないから、独占欲と嫉妬心に狂うこともなかった。溺れて沈むことがなかった。
奥さんが私にとっては、『存在しながらも存在していないような人』だったからこそ、私達の関係が保てていたような気がする。
欲を言えば、仕事のことも家庭のことも、奥さんのことも知りたいとずっと思っていた。
けれどその反面、今泉さんの全てを知ってしまうのが怖かった。
今の自分が変わってしまいそうで、自分の欲を抑え込んで気づかないふりをしてた。
……物分かりのいい女を演じていた。
何も奪わず、見返りを求めない真実の愛――
それは決して嘘ではないけれど。自分の足枷が無事に外れた後、今までと同じようには感情が抑えられなくなりそうで怖い……。
「……酷い冗談を言うのね。もし私が本当に奥さんに会いたいって言ったら、会わせてくれるの?」
「いいよ。それを亜紀が望むならね」
「ほ、本気? ……最初の約束を忘れちゃったの? 私は自分の抑制を外そうとしてる。自由になろうとしている。今泉さんにとって、危険な女になるかもしれないんだよ?」
彼の横顔を見つめ、動揺しながらも意地悪な言い方をした。
コメント
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読了しました。今回も本当に心が揺さぶられる回でしたね……。兄の「妹を支えてやって下さい」という言葉、あれは彼がどれだけ葛藤して飲み込んだか想像すると胸が熱くなりました。それを受けての今泉さんの応答も、互いを尊重する大人の会話で説得力があります。 でも一番は、車内であの「奥さんに会う?」という提案ですよ……。亜紀がそれまで無意識に避けていた「知らないことで保たれている均衡」を自ら崩そうとする瞬間。この緊張感とリスクを孕んだ会話、次が気になって仕方ないです。