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#海辺の町
昼過ぎ、啓介は本堂の裏手で、干された座布団を裏返していた。芽生が手伝いに来る。
「一枚ずつですか」
「一気にやると、住職に雑って言われる」
「正しいです」
そんなやり取りのあと、二人の間に少しだけ静かな時間が落ちた。
啓介は座布団の端を持ったまま言う。
「俺さ、小さい頃、ちょっと拗ねてたんだよな」
芽生が動きを止める。
「母さん、いろんな人に優しかったから。なんか、自分より他人を大事にしてる気がして」
「……うん」
「でも昨日、住職の話聞いて思った。違ったんだなって」
海から風が上がってきて、干した布がふわりと膨らむ。
「行き場がない人が来た時、開ける場所を持ってたんだよな」
啓介は少し笑う。
「俺、子どもだったから、そこまでは見えてなかった」
芽生は啓介の手元の座布団を受け取って、丁寧に向きをそろえた。
「見えないの、当たり前です。子どもは自分の寂しさでいっぱいです」
「言い方、容赦ないな」
「でも、その寂しさが悪いわけでもないです」
芽生の声はきっぱりしていた。
「知らなかったことに気づいたなら、それで十分前に進んでます」
啓介は思わず芽生を見る。
芽生は照れたように座布団の端だけを見ていた。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
その返事は軽いのに、啓介の胸の奥へまっすぐ落ちた。
その頃、帳場では美恵が古い寄付帳を開き、遙香が役場から持ち帰った書類を並べていた。数字と日付と書式ばかりの紙の上で、離れの未来はひどく事務的に進んでいく。
「感傷だけじゃ残せないのは分かるけど」
美恵がぼやく。
「紙が冷たすぎる」
遙香は肩をすくめた。
「だから、こっちで温度を足すの」
離れの外でも内でも、誰かが知らなかったことを知り始めていた。
それは、ただ昔を懐かしむためではなく、ここを今につなぎ直すための作業になっていく。