テラーノベル
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店先の空気は静かだった。花桶の水の匂い、朝に切った葉の青い匂い、焼き菓子のほのかな甘さ。いつもと同じものがあるのに、名前を訊かれたその数秒だけ、世界が細くなる。
ハヤは自分の指先を見た。少し湿っている。緊張しているのが分かる。
記者は急がない。
ノイシュタットも助け船を出さない。
アンネロスは腕を組み、オブラスは表情を変えず、エフチキアだけが息を止めたみたいな顔をしていた。
やがてハヤは、浅く息を吸う。
「……ハヤ、です」
声は小さかった。けれど、たしかに店の前へ落ちた。
その直後だった。
ぱち、ぱち、と拍手が起きた。
最初に叩いたのはドゥシャンで、そのせいで全員がつられたのかもしれない。エフチキアは目を輝かせ、アンネロスは呆れた顔で笑い、ノイシュタットまで静かに手を叩いている。
「やめてください」
ハヤは耳まで熱くなった。
「めでたい場面だから」
アンネロスが平然と言う。
「名前を名乗っただけです」
「それが大変な人もいるのよ」
記者も優しく笑って、メモにその名を書き留めた。
「ありがとうございます、ハヤさん」
その呼ばれ方に、ハヤはそっと目を伏せた。
不思議だった。嫌ではない。落ち着かないだけで、嫌ではなかった。
取材が終わったあと、記者は一輪包みを一つ買って帰っていった。坂の下へ向かう後ろ姿を見送りながら、ハヤは胸の奥がまだざわざわしているのを感じる。
ノイシュタットが隣へ来た。
「おめでとう」
「何がですか」
「町に君の名前が一つ増えた」
「勝手に増やさないでください」
「もう増えたよ」
その言い方がやわらかくて、ハヤは反論の勢いを失った。
昼過ぎには、さっそく通りの八百屋が店先で声をかけてきた。
「ハヤさん、この前の白い花、もう一回ある?」
たったそれだけのことなのに、胸のどこかが小さく鳴る。
夕方、花屋の仕事がひと段落したころ、ハヤは一人で保管庫へ向かった。古い扉を開けると、昼の熱が少し残った空気と、紙と木の乾いた匂いが迎えた。棚の奥に置かれた電子辞書を手に取り、いつものように電源を入れる。
淡い画面が立ち上がり、前にはなかった一行が表示された。
〈名は看板ではない。命綱だ〉
ハヤはその文字を、しばらく動かず見つめた。
名札を避けていたこと。呼ばれないままでいたかったこと。前に出なければ、傷つかずに済むと思っていたこと。そういうものが、一度に胸の奥でほどけていくわけではない。むしろ、まだ怖いままだ。
それでも今日、自分はたしかに名乗った。
その事実だけが、暗い保管庫の中で小さく灯っている。
扉の外では、朝風通りのどこかで誰かが笑っていた。夏の終わりの気配を含んだ風が、細い隙間から入ってきて、古い紙の端を揺らす。
ハヤは電子辞書を閉じ、胸の前に抱えた。
看板ではなく、命綱。
その言葉の意味はまだ全部は分からない。けれど、次に誰かに名を呼ばれたとき、今までとは違う顔で振り向ける気がした。
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