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#恋愛
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停電したホテルは、巨大な船が一度に息を止めたみたいだった。普段なら耳に入らない風の唸りや、古い配管の鳴る音まで近く聞こえる。大広間では暗闇に目が慣れない宿泊客たちがざわめき、子どもの泣き声が一つ上がると、不安はすぐ連鎖した。
「こちらへ、慌てないでください!」
最初に走ったのはゲティだった。保安灯を一本手に、入口側の動線を確保する。フレアはクロークから毛布を抱えて飛び出し、震えている客の肩へ次々とかけていく。ラウールは喉が震えているのに、それでも放送室へ走った。
ベジラも一瞬立ち尽くしたあと、近くの子どもの手を取った。
「大丈夫、泣くと前が見えなくなるわ。私の声だけ聞いて」
以前の見栄えのいい笑顔ではなく、本当に必死な声だった。
ディアビレはその光景を横目で見て、売却の話へ戻ろうとするアルノーをはっきり遮った。
「今は客の安全が先です」
アルノーが不満げに眉をひそめても、もう誰もそれを優先しなかった。
ジナウタスが非常用の懐中電灯を渡してくる。
「喫茶室側の廊下、段差に気をつけろ。転ぶ客が出る」
「分かった」
短く返し、ディアビレは暗い回廊へ駆け出した。足元を照らす光は細いが、どこに何があるかは身体が覚えている。毎日何往復もした廊下だ。飾り棚の角も、絨毯のたわみも、古い窓枠の開きにくさも知っている。
年配の夫婦が立ちすくんでいるのを見つけ、腕を貸す。宴会帰りの若い客には、海側の窓から離れるよう伝える。厨房へ顔を出して、温かい湯だけは切らさないよう頼む。
頭のどこかでは、契約も証拠もセルマの顔も残っていた。けれど今は後回しだった。目の前で困っている人間を放っておく方が、ディアビレにはずっと不自然だ。
闇の中でジナウタスとすれ違う。ほんの一瞬、灯りが交差する。
「無茶するな」
「そっちこそ」
それだけで十分だった。同じ方向を見て走っていると分かるだけで、足が止まらない。
停電でホテルは暗い。けれど持ち場に立つ人間がいる限り、ここはまだ沈まない。
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