テラーノベル
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皇宮にも勝るとも劣らぬ豪華絢爛としたオクレール侯爵邸。
御者に「邸宅まで送れ」と伝えたら、馬車に揺られるがままに到着した。門の前で馬車が止められると、初老の執事が私に一礼して迎えてくれる。
(セドリック)
会った事ないはずの執事の名前が頭に浮かぶが、この記憶は何だろう。
丁寧に剪定された薔薇のアーチを潜っていると、様々な種類の薔薇が私を迎えてくれた。
剣弁のセミダブルの花サフラノ、アイボリー色のロゼット咲きのソンブレイユ、俯き加減に大輪の花を咲かせるスパニッシュ・ビューティー。
私が猫として過ごした皇宮には何故か植えられていない薔薇。
それなのに、私は薔薇に非常に詳しい。ここにいる薔薇の特徴も育て方も頭に次々と浮かんでくる。
アンドレアが猫の私をここに連れて来た事はない。
「マイカイの花弁を使ったローズティーが飲みたいわ」
思わず漏れる私の声。猫の私はローズティーなど飲んだことがない。
ショッキングピンクの花びらに触れると強く華やかな香りが私の鼻腔を擽る。
その時、目の前に亜麻色の腰までの髪に琥珀色の瞳をした目つきの鋭い女が現れた。
「お姉様、また追い返されたのですか? お姉様に女としての魅力が足りないから、聖女にアンドレア皇子殿下を取られるんですわ!」
耳を劈くようなキンキン煩い声に私は顔を顰めた。
「クラリッサ、煩いわ」
私の言葉に驚いたように身を縮こませたのは二歳年下のクラリッサ。
「お、お姉様。いつものオドオドした感じはどうしたのですか? まるで、三年前のお姉様に戻ったようですわ。それに、アンドレア皇子殿下の愛猫まで抱えて⋯⋯」
鼻腔をくすぐる芳香な薔薇の香りに一瞬蘇った記憶。
私がオクレール侯爵邸の庭にある薔薇を一輪摘む。
棘の多いばらで有名なダブルデライトだ。
クリーム色に紅の覆輪、半剣弁高芯咲きの大輪が溜め息が出るように美しい。
誘われるように手を伸ばして、棘で指を切った私に黒髪にブルーサファイアの瞳の少年が話し掛けてくる。
『綺麗な薔薇には棘がある。まるで、君のようだねエスメ。でも、僕も君に触れずにはいられないんだ』
十二歳くらいなのに砂を吐きそうなくらいのセリフを、必死に背伸びして囁いている。
薔薇の棘で怪我をした私の手を自分の口元にまで持っていく少年。
頬を染めながら私の血を吸う彼は、アンドレアだ。
(この記憶は何?)
「クラリッサ、少しを話したいわ。部屋に戻ってローズティーでも淹れてくれる?」
「お姉様?」
「まだ、お茶は淹れられないのかしら?」
「淹れられます。⋯⋯やっぱり、お姉様はそうでなくっちゃ。三年、待ち侘びておりました。聖女シエンナ等、お姉様に比べたら⋯⋯ふふっ」
妖しく微笑むクラリッサに敵意は感じない。敵意を剥き出しで私を迎えた彼女はもういない。
(そうだ、クラリッサは私の忠実な下僕⋯⋯いや、可愛い妹だった)
さっきから、違和感ばかりだ。私は思わず頭を抱えると、その隙に腕の隙間から白猫がするりと逃げ出す。
「ノエル、待ちなさい!」
私の言葉にノエルは小さな足を止め、ゆっくりと振り向いた。私が「ノエル」だったはずなのに、名前が自分から離れていくようだ。私は「エスメ」と呼ばれた方がしっくり来る。
私は脇の下に手を差し入れ、ゆっくりとノエルを抱き上げた。
「嘘でしょ! オス!?」
私はあるはずのないものをノエルに発見し、目を丸くした。ノエルは恥ずかしがるように身を捩っている。
「お姉様? 何をおっしゃってるのですか? お姉様が猫をプレゼントした時にアンドレア皇子殿下はオスのノエルを見て、僕の世界に女は君だけで十分だとおっしゃったではありませんか?」
うっすらと蘇る記憶。私からのプレゼントなら、小石でも名付けて大事にしただろう過去のアンドレア。彼は私に惚れ込んでいたのに、今は聖女に夢中。
「三年で恋から覚めてしまうなんて、もっと何も手につかないくらい私に夢中にさせておくべきだったわね」
勝手に私の口が動く、私の言葉に感動したクラリッサは「流石お姉様」と言って目を輝かせた。
「ノエル。どういう事か説明してくれる?」
「にぃ⋯⋯」
ノエルはあからさまに私から目を逸らした。この猫、喋れないが人の言葉は理解してる。
頭が混乱しているが、色々な状況が私の頭にかかっている霧をはらってくれていた。
猫として生まれたはずの私がなぜ二足歩行であっさり歩いているのか。
立ち居振る舞いの優雅さは一朝一夕で身につくものではない。エスメが断罪されては時を戻った繰り返しの記憶はあるのに、三年前のエスメ十六歳までの記憶が朧げ。
私は屈んでノエルの小さな手をとり、ピンクの肉球を指でグリグリした。
「ちゃんと話さないと、この肉球潰しちゃうわよ」
「にゃあ!」
「お姉様、猫は喋れませんわ。アンドレア皇子殿下から飼い猫の躾を頼まれたんですか?」
「そういう事にしましょうか。さあ、早く邸宅に戻って聖女シエンナを陥れる計画でも立てましょ」
私はまた自分の口が勝手に動いていることに気が付く。私は敵を陥れ、人心を掌握し、帝国の皇子を誘惑し貴族令嬢の頂点にたった女⋯⋯だった気がする。
「お姉様なら、また社交界を牛耳れますわ」
クラリッサの言葉に舞踏会会場で私に跪いて、ダンスを誘って来たアンドレアの姿が蘇った。
光が降り注ぐよぐようなシャンデリア。周囲の貴族たちの羨望の視線に高揚する心。
⋯⋯そうだ、私は十六歳にして社交界を牛耳っていた。
オーケストラの荘厳な演奏と共に踊り始める私とアンドレア。彼がプレゼントしてくれた金糸の刺繍が繊細な真っ赤なドレスが舞う。私はガラスに映る自分の美しさに見惚れながら、自分の手にした栄光に酔いしれた。
同じ十六歳の皇子。
精悍な顔立ちに背が高く、将来帝国一の権力を持つ男。
そんな極上男を籠絡する事も、万能な私にとっては朝飯前だった。
『エスメ、愛してる。僕の心を君に捧げるよ』
彼の言葉に、私は目を細めると耳元で囁いた。
『心だけ? 私は心も身体もアンドレアに捧げられるわ』
瞬間沸騰したように赤くなるアンドレア。
(こんなもんか⋯⋯)
もう一度踊りたいと誘おうとする彼に気がつかないフリをして、私はバルコニーに出た。秋の夜風の寒さに少し震える。
青白い月の光だけが照らすバルコニーの隅で、丸くなる白猫を見つけた。
透き通るアクアマリンの瞳が印象的な猫だ。
「にゃあ」
「貴方も退屈そうね。私も退屈」
私はアンドレアのルックスと地位しか見ていない。彼を落とせば女性の最高位にまで上り詰められるからテクニカルに彼を落とした。
別に彼を好きだった訳ではないし、私は愛だの恋だのが理解できない。正直、愛の語らいに付き合うのに飽きて来ている。
「にゃん」
私が手を伸ばすと、白猫は私の手を避けた。
「私にそんな態度とって良いと思ってるの? 食べ物の匂いにでも釣られてきた野良猫風情が! こういう時は尻尾を振って、手の平に頬擦りするの。お高く止まっているのも良いけれど、相手を見て行動しなさい」
私の言葉に白猫のアクアマリンの瞳が琥珀色に光る。何かが混ざり合うような感覚に気が遠くなった私はその場に倒れた。
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