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#海辺の町
夕方になって人が少し引いたころ、啓介は本堂の脇で一人、湯のみを持ったまま座っていた。
芽生が受けた電話の内容を、全部聞いたわけではない。
それでも、何についての電話かくらいは分かってしまった。春が終われば、芽生はこの町を離れるかもしれない。そのことを、啓介はずっと見ないふりをしていたのだと思い知る。
「ぬるくなるよ」
鼓夏が隣に座った。
啓介はようやく湯のみを口に運ぶ。
「分かってるつもりだったんです。芽生さんが、ここに住んでる人じゃないってこと」
「うん」
「でも、分かってるのと、平気なのは違いました」
鼓夏は笑わず、急かさず、啓介の言葉が終わるのを待った。
離れで何度も見た待ち方だった。
「行かないでって言いたい気持ちがあります」
啓介は正直に言った。
「でも、言ったら駄目な気もする」
鼓夏は湯のみの縁を指でなぞりながら、静かに答える。
「好きな人の未来を狭くしないで」
「……」
「それとね。背中を押すのは、諦めるのとは違うよ」
啓介は顔を上げた。
「行ってほしい、じゃなくて、行くならちゃんと行けるように支える。帰ってきたいなら帰ってこられるようにしておく。そういう好きもある」
鼓夏はそこで初めて少し笑った。
「難しいけどね」
啓介は、乾きかけていた胸の奥が、じわりと痛むのを感じた。
離したくない。けれど縛りたくもない。
その両方を抱えたまま、相手の前に立てるのかどうかが、今の自分に問われているのだと分かる。
遠くで、芽生の笑い声がした。
啓介は反射みたいに立ち上がる。
「行くの?」
鼓夏が聞く。
「……はい」
「じゃあ、走って」
言われた通り、啓介は石段を駆け下りた。
背中を押せるかどうかは、会いに行かなければ始まらない。
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