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#海辺の町
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芽生は港にいた。
夕方の潮は引き始め、舟の腹が少しだけ見えている。ロープの擦れる音と、遠くのカモメの声が混じる。寺から歩けばたいした距離ではないのに、気持ちの上ではずいぶん遠いところまで来てしまったようだった。
携帯が鳴る。
画面には、啓介の名前。
芽生は一瞬だけ迷ってから、通話を取った。
「もしもし」
『……もしもし』
その先が、どちらも続かない。
啓介の向こうでは、風に混じって寺の鐘の音がかすかに鳴っていた。芽生は、啓介が今どこで電話しているのか、見なくても分かる気がした。
『さっきの、聞くつもりじゃなかったんです』
「うん」
『でも、少し分かってしまって』
「うん」
芽生は笑いそうになる。
啓介のこういう不器用さは、ずるい。
『行きたいなら、行ったほうがいいと思います』
啓介は一度息を呑んでから続けた。
『たぶん俺は、引き留めたいです。でも、引き留めることと、大事に思うことは、同じじゃない気がして』
芽生は暗くなりかけた水面を見た。
胸の奥がきゅっと縮む。
「啓介さん、それ、今言うの反則です」
『すみません』
「謝るところじゃないです」
しばらく沈黙が落ちる。
離れているはずなのに、受話口の向こうの気配が近すぎて、芽生は目を閉じた。
「まだ決めてない」
芽生は言う。
「でも、どっちを選んでも、今日のことは忘れたくない」
啓介が何か言いかけて、やめる。
その迷い方まで、芽生には伝わった。
だから芽生は、少しだけ悪戯の勢いを借りる。
「じゃあ、前払いです」
受話口へ、そっと唇を寄せた。
ほとんど音にならないほど軽い仕草なのに、自分の耳だけが熱くなる。
「……おやすみなさい」
それだけ言って電話を切る。
港の風が急に冷たくなった。
それでも胸の内側は、笑ってしまうくらい熱かった。
たぶん啓介も今ごろ、海を見たまま動けずにいる。