テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
夜明けの鐘が二つ鳴ったあと、ルメリアの訓練場には槍より先に椅子が並んだ。
木の脚が石畳をこする音を聞いた若い兵たちは、誰もが妙な顔をした。北の谷からの総攻撃まで残り日数は少ない。なのに古参兵アクバルは、武器棚の前へ長机を運ばせ、丸椅子まで人数分そろえさせていたのである。
「座れ」
低い声がひとつ落ちる。
前へ出たがっていた若い槍兵が、思わず口を尖らせた。
「こんなときに座学ですか。立って鍛えたほうが」
言い終わる前に、アクバルは空いた椅子をその若者の前へどんと置いた。
「勝つときは、立つ場所より崩れない順番を決める」
大声ではない。けれど訓練場の端までよく通る声だった。
「前へ出る役、下がる役、運ぶ役、声をつなぐ役。どこか一つでも、入れ替わる順番を誤れば壁は割れる。鍋も同じだ。火を強くしただけじゃ煮えん。焦げるだけだ」
そう言って彼は、自分で持ってきた黒い鉄鍋を机へ載せた。昨夜の炊き出しで使っていたものより小さい、訓練用の鍋だった。
カリドウェンが腕を組んで鼻を鳴らす。
「また飯の話か」
「そうだ」
アクバルは即答した。
「おまえは腹が減ると槍先が前へ滑る。腹が満ちすぎると今度は踏み込みが鈍る。鍋の火加減を知らん奴は、自分の加減も知らん」
周囲で小さな笑いが起き、カリドウェンが言い返しかけて、結局黙った。図星だったらしい。
イルネリオは少し離れた位置から、その様子を見ていた。
昨夜の仕込み場で増えた手のぬくもりが、まだ胸の奥に残っている。だが、それだけで北の谷の鬼群を止められるわけではない。鍋の湯気と城壁の守りをどう噛み合わせるか。今日はその形を決める日なのだと、訓練場の空気が告げていた。
レオニナはすでに炭筆を持ち、長机の端で人員表を書き直している。寝不足のはずなのに、目だけはよく冴えていた。シャルヴァは楯を三枚持ち込み、握りの革を外して木地をむき出しにしている。ガータムは西門から持ってきた砂時計を三つ並べ、なぜか扉の蝶番まで机へ載せていた。コンスエラは祠から持ってきた鈴と香炉を布の上へ静かに置く。
全員がばらばらのことをしているように見えて、アクバルの前には一つの鍋がある。
そのことが、妙にイルネリオの胸へ残った。
「まず、前線の交代だ」
アクバルは鍋へ水を張り、弱い火を入れた。
「沸くまで待つと思うか」
兵たちが顔を見合わせる。
「違う。沸く前に、鍋のまわりを整える。塩を置く、椀を置く、匙を置く。湯が足りなくなったときの差し水も準備する。戦も同じだ。槍隊が疲れてから代え手を探すんじゃ遅い」
彼は木札を十数枚取り出し、机の上へ並べた。槍隊、楯持ち、補給走り、負傷者搬送、門伝令、見張り交代。そこへ兵の名前を書いた札を重ねていく。
「三刻ごとに入れ替える」
「短すぎませんか」
若い兵が言う。
「気力は保っても、足は保たん」
アクバルは鍋をひと混ぜした。
「煮込みも同じだ。表面が揺れたから大丈夫だと思って放っておくと、底だけ先に焦げる。見えるところだけでは足りん」
その言葉を合図にしたように、訓練場の隅でガータムが口を開いた。
「西門は……三つ目の鐘から、荷車一台が抜ける時間だけ開ける」
相変わらず言葉は遅い。だが一言ごとに、全員が耳を傾ける。
「開ける前に、外側へ楯二枚。内側に槍三。閉める合図は……これ」
彼は蝶番を指先で弾いた。乾いた金属音が鳴る。
「鐘だと風で流れる。これなら門の近くには残る」
レオニナが炭筆を止める。
「何息ぶん?」
「荷車の後輪が石段を越えるまで。早く閉めると、車軸が引っかかる」
ガータムは砂時計を返し、さらに続けた。
「遅いと、後ろから鬼が差し込む。だから……四拍、半」
カリドウェンが目を丸くした。
「そんな細かいところまで見てたのか」
ガータムは肩をすくめるでもなく、ただ砂の落ちる細い音を見ていた。
「見てないと、閉めるとき迷う」
その一言に、イルネリオは思わずうなずきそうになった。返事は遅いのに、決める瞬間だけ迷いが消える。第5話で描写済み? okay.
門とは、鍋の蓋に似ている。開ける時間が短すぎても火が息苦しくなり、長すぎれば熱が逃げる。ガータムはたぶん、ずっとそういう見方で門を見てきたのだ。
次にシャルヴァが前へ出た。
削りかけの楯を机へ立て、握りの内側を示す。
「料理を食べた直後は、手足へ力が通りやすい。けれど戦っているうちに、いちばん先に抜けるのは握りの感覚だ」
彼は握りへ新しい革帯を巻きつけた。革の下には、細い溝を刻んだ木板が仕込まれている。
「ここへ麦糊を染み込ませた布を挟む。さらに香草油を少量。熱と匂いが手の内に残るから、食事の効き目が散りにくい」
「楯まで飯の延長かよ」
カリドウェンが半ば呆れて言うと、シャルヴァは穏やかに答えた。
「腕が先に諦めるから口も荒くなる。なら、腕を少しだけ長持ちさせる」
試しに楯を受け取った兵が、握ってすぐに顔を上げた。力が増したというより、手の中で楯が暴れないのだろう。重さを支えるために余計な力を使わずに済む顔だった。
イルネリオはその様子を見て、鍋の温度が食卓から武具へ渡っていく感覚に、鳥肌が立った。自分の作る料理は腹に入って終わるものではない。噛んで飲み込み、そのあとに誰かの手元で形を変える。それもまた守りなのだ。
コンスエラは香炉へ火を入れ、祠から持ってきた鈴を一度だけ鳴らした。
澄んだ音が朝の空気を細く裂く。
「祠から地下結界炉へ術を通す」
彼女は香の煙を鍋の湯気へ近づけた。
「鬼面が拾うのは血の匂いだけじゃない。人が火を囲んだときの息、湯気の向こうで交わした声、そういうものも拾う。なら、結界炉へ流すのは祈りだけでなく、台所の気配ごとがいい」
「気配ごと?」
イルネリオが問うと、コンスエラは笑った。
「朝から難しい顔するな。要するに、鍋を空っぽのまま祠へ持ってきて、湯気だけ借りるんだよ。空の器でも、一度ちゃんと食事の場にいた器なら、結界はそれを覚える」
レオニナがすぐに帳面へ書き込む。
「祠に回す鍋は二つ。炊き出し用と別にする。洗う順番も分ける」
「そう。洗い桶を混ぜないこと」
コンスエラの返答は軽いが、目は真面目だった。雑に扱えば効き目が途切れるのだろう。
訓練場ではそのあと、座学の続きが始まった。
アクバルは兵を立たせて走らせる前に、まず椀を持たせた。中身は水だけだ。だが、前へ出る役、下がる役、受け取る役を決め、こぼさず次へ渡す練習をさせる。
「何の意味が」
と若い兵が言いかけたところで、横から別の兵とぶつかり、水を床へこぼした。
アクバルが顎をしゃくる。
「その一杯が、包帯を濡らす湯だったらどうなる」
誰も口を開かない。
「その一杯が、門番の喉を潤す汁だったらどうなる」
椀を持つ手つきが変わる。
「守りは、倒すことより途切れないことだ」
彼はそう言って、自分でも椀を一つ持った。
「最後の一口まで前へ届く段取りを考えろ。勝ち負けはそのあとだ」
その言葉は、イルネリオの胸の奥へまっすぐ落ちた。
ここ数日、彼は心のどこかで、自分が守護鬼として砦の中心へ立たなければならないのではないかと考えていた。鬼面を拾ったのは自分だ。味の異変を抱えたのも自分だ。なら最後に結界の前へ立つのも自分ひとりであるべきだ、と。
だがアクバルの話は、その考えを静かに崩した。
鍋の前に立つ者がいても、火を起こす者がいなければ煮えない。塩を運ぶ者がいなければ味は決まらず、椀を洗う者がいなければ次の一杯は出せない。前に立つ役だけを守護と呼ぶのは、あまりに狭い。
守るとは、最後の一口まで届く順番を整えることなのかもしれない。
そう思ったとき、胸の紋の熱が、今までとは違うやわらかさで息をした。
昼近くになる頃には、訓練場の動きは見違えるほど変わっていた。
槍隊は前へ出る三歩と下がる二歩の呼吸を合わせ、楯持ちは受け止める角度を隣同士で確かめ、補給走りは鍋から椀、椀から門、門から負傷者の天幕までの道を何度も行き来する。ニコリナはその合間を縫って短い節を口ずさみ、歩幅の合図を揃えていた。歌というより、足音のための印だった。
レオニナは帳面を閉じ、ようやくイルネリオの横へ来る。
「どう」
「鍋の並べ方が見えてきました」
「鍋?」
「はい。城壁も門も祠も、全部、配る順番でつながる」
自分で口にしてから、ようやく腑に落ちた。
イルネリオは訓練場の全体を見渡す。砂時計、楯、鍋、木札、鈴、帳面。ばらばらだったものが、一つの食卓みたいに場所を得ていた。
「俺はたぶん、守護鬼そのものになるんじゃない」
つぶやくと、レオニナが眉を上げる。
「じゃあ何になるの」
イルネリオは少し考え、それから笑った。
「配膳係です」
一瞬だけ沈黙があり、次の瞬間、レオニナが吹き出した。
「砦の命運を背負う言葉にしては、ずいぶん地に足がついてる」
「でも、いちばん間違えたくない役目です」
そう返すと、彼女は笑みを消さないまま、まっすぐうなずいた。
「なら、誰に何をどの順番で渡すか、最後まで一緒に詰めましょう」
その横顔を見たイルネリオは、総攻撃の重さを忘れたわけではないのに、不思議と足元が定まるのを感じた。
夕方、訓練場の端ではアクバルが一人で小鍋の火を見ていた。
強くもなく弱くもない、息をひそめたような火である。イルネリオが隣へ立つと、彼は鍋蓋を少しだけずらした。
「ほらな。急がせないほうが、最後までちゃんと届く」
中では豆と野菜が静かに踊っている。派手さはないが、底からまっすぐ湯気が立っていた。
イルネリオはその湯気を見つめながら、明日の城壁と明後日の鍋と、その先の朝食まで思い描く。
守りは剣先だけではない。火を見て、順番を決めて、最後の一口が届くように並べ直すことだ。
その理解が、彼にとっては何より大きな武器になりつつあった。
#砦